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興福寺の南円堂(なんえんどう)は、813年(弘仁4年)、藤原北家の藤原冬嗣が父内麻呂の冥福を祈って創建した八角堂。 発掘調査では、基壇築造の際に地神を鎮めるために、和同開珎(わどうかいちん)や隆平永宝(りゅうへいえいほう)といった銭貨がまかれたことが明らかとなっており、弘法大師(空海)が関わっていたと伝えられている。 現在の堂は創建後4度目の建物で、1789年(寛政元年)に再建された(重要文化財)。 堂内には、本尊の不空羂索観音像を中心に四天王像・法相六祖坐像が安置されている。 いずれも、1180年(治承4年)の平重衡の南都焼討後の再興像で、慶派仏師の康慶一門による制作とされている。 西国三十三箇所の第九番札所。 「春の日は 南円堂に かがやきて 三笠の山に 晴るるうす雲」 御詠歌は、西国三十三所中興の祖といわれる花山法皇が巡礼の際に木の短冊にしたためた和歌なのだという。 |
興福寺の開基・藤原不比等の次男房前を祖とする家系。 不比等→房前→真楯→内麻呂→冬嗣 |
木造不空羂索観音菩薩像 (鎌倉時代) |
興福寺の不空羂索観音は、746年(天平18年)に講堂の本尊として造立されたが、813年(弘仁4年)、藤原冬嗣は南円堂を建立し、その本尊としたのだという。 「不空」とは絶対に失敗のないという意味で、「羂索」とは観音像の持っている縄のこと。 不空羂索観音は、経典に鹿皮(ろくひ)を被ると書かれているらしく、藤原氏は春日大社の神鹿と関連づけ、一族の守護本尊としていたが・・・ 1180年(治承4年)の平重衡の南都焼討で焼失。 現在の木造不空羂索観音菩薩像は、1189年(文治5年)、仏師康慶とその弟子によって造立されたもので国宝。 不空羂索観音の信仰は藤原氏が独占していたため、他の観音像に比べて作例が少ない。 |
鹿島神宮から春日大社に迎えられた祭神の武甕槌命(たけみかづちのみこと)は、白鹿に乗ってやって来たという(神鹿伝説)。 そのため、奈良公園の鹿は「神鹿」として大切に保護され、現在では国の天然記念物に指定されている。 |
木造法相六祖坐像 ほつそうろくそざぞう (鎌倉時代) |
木造法相六祖坐像は、1189年(文治5年)、仏師康慶とその弟子によって造立されたもので国宝。 |
木造四天王立像 (鎌倉時代) |
木造四天王立像は、1189年(文治5年)、仏師康慶とその弟子によって造立されたもの。 2017年(平成29年)まで中金堂に安置されていたが、もともとは南円堂に安置されていたものであることから移された。 2018年(平成30年)、国宝に指定。 なお、2017年(平成29年)まで南円堂に安置されていた四天王立像は、中金堂に移されている。 この四天王立像は、北円堂に安置されていた運慶作の像ではないかと考えられている。 |
康 慶 |
康慶は、南都焼討後の復興事業で北円堂の造仏を任された運慶の父。 定朝の流れを汲む奈良仏師の傍系だが、興福寺の復興事業が始まった頃、奈良仏師の中で僧綱位にあったのは康慶のみ。 |
蓮華王院は、1164年(長寛2年)に後白河法皇が創建した寺院。 康慶は、1178年(治承2年)に蓮華王院に建立された五重塔の造仏を任されて僧綱位・法橋の僧位を得たのだという。 |
2025年、 鎌倉復興期の北円堂が再現される! |
九条兼実の日記『玉葉』によると・・・ 兼実の妻と子は、度々、藤原氏の氏社である春日大社を詣で、春日大社から東大寺と興福寺の南円堂にも詣でている。 これは、南円堂の創建者藤原冬嗣が南円堂の創建を機に出世したことで、藤原氏の氏寺信仰の中心になっていたためと、 西国三十三箇所の第九番札所として、東大寺の大仏とともに庶民信仰の場となっていたためだといわれている。 |
庶民に信仰された大仏様と観音様(okadoのブログ) |
興福寺は、平城京遷都の710年(和銅3年)に創建された藤原氏の氏寺。 平安時代には南都七大寺に数えられ、古代・中世を通じて大和国を支配した。 |
奈良市登大路町48番地 JR奈良駅から市内循環バス「県庁前」下車すぐ。 近鉄奈良駅から徒歩5分。 |
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興福寺は世界文化遺産 (古都奈良の文化財) |
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