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歌の中山:清閑寺
〜京都東山〜

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京都:清閑寺


 清閑寺は、802年(延暦21年)、紹継法師が天台宗の寺院として創建したことにはじまる。

 一条天皇の時代(986−1011年)に受領の佐伯公行が再興。

 法華三昧堂・宝塔・山神堂などが建立され、十一面千手観音を本尊として清閑寺と号するようになる。

 996年(長徳2年)には一条天皇により勅願寺に列せられている。

 往時は、清水寺と並ぶほどの大寺院だったが応仁の乱の兵火によって焼失。

 慶長年間(1596 - 1615年)に真言宗の寺院として再興された。

 真言宗智山派。

 山号は歌中山。

 本尊は十一面千手観音(伝菅原道真作)。

 高倉天皇の寵愛をうけた小督局(こごうのつぼね)が平清盛によって尼にさせられたと伝えられる寺院(『平家物語』)。



(参考)

 清閑寺を再興した佐伯公行(さえきのきんゆき)は、藤原為光の娘・寝殿の上から一条院を購入して、一条天皇の生母・藤原詮子に献上している。

 藤原定子の子敦康親王の乳母で、藤原道長と中宮彰子を呪詛した高階光子の夫。





京都:清閑寺供養塔
宝篋印塔

 本堂の前に建てられている2基の宝篋印塔は、左が小督局、右が紹継法師の供養塔と伝えられている。

 小督局(こごうのつぼね)は、藤原成範の娘。

 高倉天皇に仕え、範子内親王(はんしないしんのう)を産んだが、平清盛によって清閑寺で出家させられ、この地で生涯を終えたのだという。 


 小督局は高倉天皇の後宮。
 中宮は平清盛の娘・建礼門院徳子だった。





京都:清閑寺高倉天皇陵
六条天皇陵・高倉天皇陵

 旧境内の山腹には、六条天皇陵、高倉天皇陵がある。

 六条天皇は後白河法皇の孫。

 2歳で即位したが後白河法皇によって2年半で退位させられ叔父の高倉天皇に譲位した。

 13歳で崩御。

 高倉天皇の父は後白河法皇

 母は平清盛の妻・時子の妹・滋子。

 中宮は清盛の娘・徳子。

 安徳天皇に譲位した後、病に倒れ崩御した。

 遺言により小督局のいる清閑寺に葬られたのだという。





京都:清閑寺茶室
茶室「郭公亭」

 1991年(平成3年)まで鐘楼堂の上方にあった茶室「郭公亭」は、幕末に西郷隆盛と清水寺成就院の月照上人が密談した場所。

 1858年(安政5年)、安政の大獄で追われる身となった月照は、「郭公亭」で西郷と会い、都落ちの計画を練ったのだという。

 その後、西郷の手引きで薩摩に逃れたが、薩摩藩では受け入れを拒否され、11月16日、死を覚悟して西郷とともに錦江湾に入水した。

 西郷は助けられたが月照は非業の死を遂げている。


清水寺成就院
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清水寺北総門
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(総門前の石碑)









鐘楼
鐘楼
清閑寺要石
要石





 清水寺子安塔から清閑寺までの山路は「歌の中山」と呼ばれ、清閑寺の山号となっている。

清水寺子安塔
リンクボタン子安塔
清水寺
リンクボタン清水寺



〜清水寺と清閑寺の領地争い〜

 1213年(建暦3年)、清水寺の僧が清閑寺の領地に一堂を建立したことで、比叡山興福寺の衆徒を巻き込んだ争いになったのだという。

 裁定の結果、土地は清水寺の所領となり、その代わりに、清水寺の前執行・法橋快玄が還俗させられて佐渡国に配流されたのだとか・・・

 リンクボタン清水寺と清閑寺の領地争い









京都:清閑寺
清閑寺

京都市東山区清閑寺歌ノ中山町3

京阪バス清閑寺「山ノ内町」下車徒歩10分
清水寺子安塔から徒歩10分



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