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枇杷殿(びわどの)は、藤原氏の邸宅。 1002年(長保4年)以降は藤原道長が所有し、次女・藤原妍子の里邸として整備された。 |
1009年(寛弘6年)、一条天皇の里内裏・一条院が焼失した際には、 一条天皇が中宮・藤原彰子(道長の長女)らとともに遷御。 そのため、紫式部も枇杷殿に出仕していたのだという。 清少納言も出仕したとされるが、この頃には仕えていた藤原定子が崩御し、自身も宮中を去っていたようなので、あり得ないのかもしれない・・・ |
1012年(長和元年)、皇太后となった藤原彰子が使用。 紫式部も出仕し、頻繁に彰子を訪問していた藤原実資の取次役を務めている。 |
紫式部の歌〜ありし世は・・・栄花物語〜 |
1014年(長和3年)2月に内裏が焼失したため三条天皇が遷御。 彰子は藤原頼通の高倉殿に移っている。 翌年9月、三条天皇は新造の内裏に還御するが、11月に再び内裏が焼失し枇杷殿に遷御。 2ヶ月後の1016年(長和5年)正月、三条天皇は藤原道長に強要され、枇杷殿で敦成親王(後一条天皇)に譲位している。 |
平安宮 (大内裏) |
内裏跡 |
平安宮は、平安京の宮城。 内裏は天皇の住まいで、儀式や執務などを行う宮殿。 |
大極殿跡 |
一条院跡 |
大極殿は、平安京の大内裏(平安宮・宮城)にあった朝堂院の正殿。 999年(長保元年)6月14日、内裏が焼失すると、一条天皇は一条院に遷御。 以後、一条院は一条天皇の里内裏として使用された。 長保元年の内裏焼失には、道長と無骨法師の伝説が残されている。 |
無骨の山鉾を禁止した藤原道長と祇園天神の怒り |
枇杷殿の東には、藤原道長の土御門第(土御門殿)があった。 |
土御門第(土御門殿)の東には、彰子に仕えた紫式部の邸宅もあった。 蘆山寺はその邸宅跡とされている。 |
枇杷殿跡は、京都御所の南、皇宮警察本部京都護衛署前の梅林辺り。 |
京都市上京区京都御苑3 地下鉄烏丸線「今出川駅」より徒歩5分 |
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