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桐壺更衣(きりつぼのこうい)は、紫式部の『源氏物語』の主人公・光源氏の母。 更衣は、女御のうち下位のものを指す呼び名。 桐壺の名は、天皇の住まい清涼殿からもっとも遠い淑景舎(桐壺)を住まいとしたことによる。 桐壺更衣は、桐壺帝の寵愛を受けて光源氏(桐壺帝の第二皇子)を産むが・・・ 身分が低く後ろ盾もなかったため、第一皇子を産んでいた弘徽殿女御をはじめとする他の妃たちの嫉妬や嫌がらせにあう。 あるときは通路に汚れものを置かれ、あるときには馬道に閉じ込められた。 そして、もともと病気がちだった桐壺更衣は、光源氏が3歳の時に心労のため病死。 数年後、桐壺更衣のことを忘れられずにいた桐壺帝は、先帝の四の宮で桐壺更衣に瓜二つの藤壺を入内させて寵愛する。 12歳で元服した光源氏は、左大臣の娘・葵の上を正室とするが・・・ 母に似た藤壺に恋をし、不義の子(のちの冷泉帝)が誕生することとなる。 のちに、光源氏の最愛の妻となる紫の上は藤壺の姪。 |
桐壺更衣は、桐壺帝の寵愛を受けすぎたため、国を亡ぼす楊貴妃に例えられた。 泉涌寺の楊貴妃観音像は、唐の皇帝玄宗が造立したもの。 |
桐壺更衣は、紫式部の曾祖父・藤原兼輔の娘・桑子をモデルにしているといわれる。 桑子は醍醐天皇に更衣として入内。 章明親王を生むが皇子が3歳の時に亡くなったのだという。 |
藤原兼輔の歌~紫式部が『源氏物語』に引用した歌~ |
桐壺更衣のモデルには諸説あるが、一条天皇が寵愛した藤原定子もその一人。 定子も敦康親王を産んで間もなく亡くなっている。 |
御所は、光源氏誕生の地。 ただ、平安時代の御所は、京都御所の西方約2キロの所にあった。 |
平安宮 (大内裏) |
内裏跡 |
平安宮は、平安京の宮城。 内裏は、天皇の住まいで、儀式や執務などを行う宮殿。 光源氏は清涼殿で元服。 淑景舎には光源氏の母・桐壺更衣が居住。 桐壺更衣亡き後、飛香舎には桐壺帝の後妻で光源氏の初恋の人・藤壺が居住した。 |
大極殿跡 (朝堂院正殿) |
豊楽殿跡 (豊楽院正殿) |
平安宮の中央には朝堂院、西に豊楽院、北東に内裏があり、それらを囲むように二官八省をはじめとする役所が建ち並んでいた。 大極殿は、朝堂院の正殿。 豊楽殿は、豊楽院の正殿。 平安宮は、1227年(安貞元年)の火災で全焼した後は再建されなかった。 |
桐壺更衣が住んだ淑景舎は、内裏の後宮七殿五舎の一つ。 |
清涼殿跡 (平安宮) |
清涼殿 (京都御所) |
光源氏が元服したのは平安宮の清涼殿。 京都御所の清涼殿は、1855年(安政2年)に平安時代の建築様式で造営。 |
二条院は桐壺更衣の里邸で、光源氏が伝領し、紫の上を迎え入れている。 |
桐壺更衣の葬儀が行われた寺のモデルは六道珍皇寺らしい。 |
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