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※ | このページの人形は、京都の風俗博物館のもの。 |
『紫式部日記」によると・・・ 1008年(寛弘5年)9月9日の重用の節句・・・ すでに盛りを過ぎていた紫式部に「老いをぬぐい去る」という「菊の着せ綿」が藤原道長の北の方(源倫子)から贈られた。 「菊の着せ綿」は、重陽の節句の前日に菊の花を真綿で覆って香りを移しとったもの。 9日の朝に夜露で湿った綿で体や顔を拭うと千年も寿命が延びるとされていた。 |
感激した紫式部は 「菊の露 わかゆばかりに 袖ふれて 花のあるじに 千代はゆづらむ」 (この菊の露に私ごときはほんのちょっと若返る程度に袖をふれるだけにとどめまして、この露がもたらす千年もの歳は、花の持主であるあなた様にお譲り申しましょう) とお礼の歌を詠んだが・・・ その時はすでに倫子が自分の部屋に帰ってしまったので「菊の着せ綿」は手元にとどめることにしたのだとか。 |
旧暦の9月9日は重陽の節句。 平安時代には、宮中行事としての「重陽の節会」が恒例化。 嵯峨天皇の時代には神泉苑で行われていたが、淳和天皇の時代には紫宸殿で行われるようになったのだという。 菊の花の盛りの時なので、菊の花を観賞したり、菊酒を飲んだりしたため「菊花の宴」とも呼ばれた。 重陽の節会では・・・ 天皇が紫宸殿に出御し、前庭で文人たちが漢詩を作り、人々に菊酒が下賜され、宴が模様された。 天皇が出御しない場合は宜陽殿で菊酒が下賜されていたらしい。 ただ、1008年(寛弘5年)の重陽の節会は中宮・藤原彰子の出産が間近だったため行われなかった。 |
風俗博物館~道長の栄華・彰子に仕えた紫式部・源氏物語~ |
藤原彰子の出産~敦成親王誕生:紫式部日記~ |
紫宸殿跡 (平安宮) |
紫宸殿 (京都御所) |
平安時代に「重陽の節会」が行われていたのは平安宮の紫宸殿。 京都御所の紫宸殿は、1855年(安政2年)に平安時代の建築様式で造営。 |
土御門殿は、彰子の父・藤原道長の邸宅。 1008年(寛弘5年)7月16日、お産のため土御門殿に里下がりした一条天皇の中宮・藤原彰子は、9月11日正午、無事に皇子を出産(のちの後一条天皇)。 |
藤原彰子の皇子出産と紫式部と源氏物語~『紫式部日記』~ 紫式部は「源倫子にも仕えていた」という説 紫式部の歌~一重山吹を贈ってもらったときの歌~ |
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