紫式部「光る君へ」


通い婚・妻問婚と
藤原道長と紫式部



編集:yoritomo-japan.com








 「通い婚」は、夫婦がそれぞれ別の家に住んで、定期的に相手の家を訪れて数日間を暮らす形態。

 平安時代には、夫が妻の家を訪れるの通常だったので「妻問婚」(つまどいこん)と呼ばれていた。

 妻問婚では、子の養育は母の一族が行うものであったらしく、その仕組みは摂関政治成立の要因となった。





~藤原道長の場合~

 藤原氏の実権掌握方法は・・・

 娘を天皇や皇太子に嫁がせ、生まれた子が天皇になったときに、天皇が幼いときには摂政、長じてからは関白として政治の実権を握るというもの。

 藤原道長は長女の彰子一条天皇の中宮とし、生まれた敦成親王と敦良親王子は道長一族のもとで養育され、のちに後一条天皇後朱雀天皇となった。

 そして、長女の彰子が太皇太后、次女の妍子が皇太后、四女の威子が皇后となる前代未聞の偉業を達成。

 そのときに詠んだのが「この世をば・・・」の望月の歌

 ただ、道長の栄華が過ぎると、その制度も変化し、生まれた子の養育を父の一族で行うようになり、後三条天皇の時代になると摂関政治は衰退していった。





~紫式部の場合~

 紫式部の結婚相手は、越前国に下向しているときから求婚してきていた藤原宣孝

 越前国から帰京した998年(長徳4年)頃に結婚(宣孝が通ってくる通い婚)。

 自撰歌集の『紫式部集』には、花の贈答歌など夫婦団欒のひと時の歌も収められているが・・・

 結婚後の多くは、宣孝が他の女のところに通ってしまい、寂しい思いをしながら、なかなか来ない宣孝を待つ歌。

 もともと浮気性の宣孝

 結婚前には、紫式部に求婚しているにもかかわらず、近江守の娘にも懸想していたことも・・・




紫式部公園
リンクボタン紫式部公園
(越前市)
紫式部歌碑
リンクボタン紫式部歌碑
(紫式部公園)


 996年(長徳2年)、紫式部は越前守に叙任された父の藤原為時に同行して越前国へ下向。

 紫式部公園は、紫式部が越前国に下向したことを記念して整備された公園で、園内には藤原宣孝へ贈った歌の歌碑が建てられている。



リンクボタン紫式部の歌~方違えで泊まっていった男は藤原宣孝?~

リンクボタン紫式部の歌~藤原宣孝の求婚を拒否する歌~




京都:蘆山寺
リンクボタン廬山寺
(京都)

 廬山寺は、藤原宣孝が通っていた紫式部の邸跡に建てられている寺。

 ここで紫式部は、宣孝との間に生まれた娘・賢子と宣孝を待っていた・・・



リンクボタン紫式部の歌~藤原宣孝に飽きられた紫式部の悲しみの歌~

リンクボタン紫式部の歌~藤原宣孝が来ない邸宅で嘆く紫式部~

リンクボタン紫式部の歌~夫婦仲に秋風が立ち、天の川の逢瀬を羨む~

リンクボタン紫式部の歌~浮気する藤原宣孝への反発の歌~




紫式部の歌










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