紫式部「光る君へ」

★大河ドラマ館2月23日オープン!


紫式部の越前下向
~紫式部が通った道~


編集:yoritomo-japan.com








下向行列
リンクボタン越前和紙で作られた
紫式部下向行列




 996年(長徳2年)、紫式部の父藤原為時が越前国司に任命された。

 この年の夏、紫式部は為時に同行して越前国へ下向。



リンクボタン一条天皇に漢詩を奏上して越前守となった藤原為時

リンクボタン宋人と詩を唱和した紫式部の父・藤原為時





越前下向



京都:蘆山寺
リンクボタン廬山寺
(京都)

 廬山寺紫式部の邸跡。

 都を発った一行は、鴨川を渡り粟田口から山科を経て逢坂の関を越えて大津へ。



逢坂関
リンクボタン逢坂の関
(大津市)
打出浜
リンクボタン打出浜
(大津市)


 大津の打出浜から船出。

 琵琶湖の西岸沿いを北へ向かった。



白鬚神社
リンクボタン白鬚神社
(高島市)
白鬚神社紫式部歌碑
リンクボタン紫式部歌碑
(白鬚神社)


 三尾の海に 網引く民の てまもなく
 立居につけて 都恋しも


 湖西を通って塩津浜へと向かう途中で詠んだ歌。

 白鬚神社の境内に歌碑が建てられている。

 三尾駅で泊。



塩津浜
リンクボタン塩津浜
(長浜市)
塩津神社
リンクボタン塩津神社
(長浜市)


 かき曇り 夕だつ浪の あらければ
 うきたる舟ぞ しづ心なき


 塩津浜へ向かうときに詠んだ歌。

 この歌から越前下向は夏だったと考えられている。

 塩津浜に上陸した紫式部は、塩津神社で旅の安全を祈願。

 塩津で泊。



塩津浜の万葉歌碑
リンクボタン塩津浜の歌碑


 知りぬらむ 行き来にならす 塩津山
 世にふる道は からきものとは


 紫式部が塩津山を越える時に詠んだ歌。

 塩津山(深坂峠)を越えて敦賀へ。



気比の松原
リンクボタン気比の松原

(敦賀市)
気比神宮
リンクボタン気比神宮

(敦賀市)


 気比の松原付近には、松原客館があったといわれ、紫式部が下向した時には宋の商人が宿泊していた。

 北陸道の敦賀駅も気比の松原付近にあったのだといわれる。

 敦賀には三泊ほどしているようなので、一之宮の気比神宮にも参拝したのかと。



木ノ芽峠
リンクボタン木ノ芽峠
鹿蒜神社
リンクボタン鹿蒜神社
(南越前町)


 敦賀からは、古くからの官道である木ノ芽峠を越えて鹿蒜駅に至り、国府のある武生へ向かったとする説が多いが・・・

 海路を利用して水津(杉津)へ行き山中峠を越えて鹿蒜駅に至ったとする説や、甲楽城に上陸して武生に向かったという説もある。

 鹿蒜神社は鹿蒜駅にある社で、鹿蒜駅に一泊しているといわれる。



越前国分寺
リンクボタン国分寺
総社大神宮
リンクボタン総社大神宮


 国府には、中央から派遣された国司が政務を執る国庁が置かれたほか、国分寺・国分尼寺、総社(惣社)が設置されていた。



御霊神社
リンクボタン御霊神社
本興寺
リンクボタン本興寺


 御霊神社国府と関係のある社。

 本興寺には、紫式部ゆかりの紅梅があって、境内は国府跡という説が・・・



紫式部公園
リンクボタン紫式部公園

 紫式部公園は 紫式部が越前国に下向したことを記念して整備された公園。



紫式部像
リンクボタン紫式部像

 紫式部公園には 十二単衣をまとった金色の紫式部像が建てられている。



紫式部歌碑
リンクボタン紫式部歌碑
(紫式部公園)
紫式部歌碑
リンクボタン紫式部歌碑
(蔵の辻)


 ここにかく 日野の杉むら 埋む雪
 小塩の松に けふやまがへる


 ふるさとに 帰る山路の それならば
 心やゆくと ゆきも見てまし










下向の直前に上賀茂神社で


上賀茂神社・片岡社
リンクボタン片岡社
上賀茂神社・紫式部歌碑
リンクボタン紫式部歌碑


 ほととぎす 声待つほどは 片岡の
 杜のしづくに 立ちや濡れまし


 この歌は、越前に下向する直前に上賀茂神社を詣でた時に詠んだもの。

 片岡は上賀茂神社の摂社・片岡社のことらしい。

 ならの小川のほとりには歌碑が建てられている。





下向の旅の再現


琵琶湖を北上する国司列
リンクボタン琵琶湖を北上する国司列
(紫ゆかりの館パネル)

 1996年(平成8年)、紫式部の越前下向1000年を記念して、当時の「下向の旅」が再現された。

 2024年(令和6年)にも「紫式部プロジェクト推進協議会」による「越前下向の旅」の再現が予定されている。





越前和紙


岡太神社
リンクボタン岡太神社
越前和紙の里
リンクボタン越前和紙の里


 越前は和紙の産地。

 岡太神社は、紙祖神の川上御前を祀る古社。

 越前和紙の里では、紙漉き体験・伝統工芸士による紙漉き・越前和紙の資料展示などが催されている。





源義経も


 『義経記』によると・・・

 壇ノ浦の戦い後、源頼朝と不仲となってしまった源義経は、都を逃れ、逢坂の関を越えて大津から琵琶湖を渡って奥州平泉へ向かったのだという。

 義経は唐崎の松比叡山日吉大社、堅田浦を眺めながら琵琶湖の西岸沿いを進み、白鬚神社を拝みながら今津浦を過ぎて海津浦へ。

 海津浦から愛発山を越えて敦賀に至り、気比神宮で祈願した後、木ノ芽峠を越えて越前武生に辿り着いたらしい。



源義経も逗留した越前武生










帰 京


 996年(長徳2年)の夏に越前国に下向した紫式部は、翌年秋から翌々年の春にかけて帰京(帰京の時期については諸説ある。)。


 ましもなほ 遠方人の 声かはせ
 われ越しわぶる たにの呼坂


 この歌は、木ノ芽峠(鹿蒜山)を越えるときに詠んだものとされている。

 「呼び坂」が木ノ芽峠のことかどうかは明らかではないが、詞書に「都の方へとて 帰る山(鹿蒜山)越えけるに」とあるので木ノ芽峠越えのどこかとされているらしい。

 その後、敦賀から深坂峠を越えて塩津浜へ。



リンクボタン紫式部の歌~ましもなを・・・帰京途中のする鹿蒜山で詠んだ歌~



礒崎神社
リンクボタン礒崎神社
(米原市)
伊吹山
リンクボタン伊吹山


 磯がくれ おなじ心に たづぞ鳴く
 なが思じ出づる 人やたれぞも


 越前国へ下向する際は、琵琶湖を西岸沿いに渡ったが、帰京する際は、礒崎神社が鎮座する磯の歌を詠んでいることから、湖東を渡って打出浜に上陸したらしい。

 紫式部は帰京する際、伊吹山も詠んでいる。

 名に高き 越の白山 ゆきなれて
 伊吹の嶽を なにとこそ見ね



紫式部歌碑
リンクボタン紫式部歌碑
(近江八幡市)
紫式部歌碑
リンクボタン紫式部歌碑
(野洲市)


 おいつしま 守りの神や いますらん
 波もさわがぬ わらわえの浦


 この歌は沖島を望んで詠んだとされる歌。

 近江八幡市の百々神社境内と、野洲市のあやめ浜に歌碑が建てられている。

 沖島は、神の島と呼ばれた琵琶湖最大の島。 



奥津嶋神社
リンクボタン奥津嶋神社
(近江八幡市)
日牟禮八幡宮
リンクボタン日牟禮八幡宮
(近江八幡市)


 奥津嶋神社は、沖島に鎮座する社。

 日牟禮八幡宮は、大嶋大神を祀ったことに始まるとされる社。

 白鬚神社奥津嶋神社日牟禮八幡宮は一直線上に位置する。




紫式部と越前国


紫式部の歌



琵琶湖で紫式部・源氏物語











紫式部の越前国下向
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紫式部


紫式部と越前国


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