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鎌倉長谷にある染屋太郎大夫時忠邸址碑に刻まれている文によると・・・ 時忠は藤原鎌足の玄孫で東大寺の良弁僧正の父。 697年(文武天皇元年)頃から728年(神亀5年)頃まで、東国八箇国の総追捕使として鎌倉に住み、東夷を鎮圧して、由比長者と称されていたのだとか。 |
※ | 「染屋」という氏については「漆屋」だという説がある。 |
『大山縁起絵巻』は良弁について・・・ 相模国の国司だった太郎太夫時忠夫妻には子がなく、如意輪観音像に祈願して良弁が誕生。 ところが、生まれて間もなく金色の鷲にさらわれてしまう。 その後、高僧・覚明が楠木にあった金色の鷲が巣の中に赤子を発見。 しかし、巣に中から助ける事ができず、不動明王に祈願すると、一匹の猿が現れて覚明に手渡したのだという。 助けられた子は僧侶として育てられ、東大寺を建立。 そして、探しに来た父母と南大門で再開。 父母とともに相模国へと帰り、大山寺を建立したのだと伝えている。 こうした話から、『宝物集』では金鷲童子、『東大寺大仏縁起』では金鷲仙人と呼ばれていたのだという。 |
東大寺二月堂前の良弁杉にも伝説が残されている。 良弁の両親は、観音菩薩に願ってやっと子を授かるが、金色の鷲にさらわれ行方不明となってしまう。 ここまでは『大山縁起絵巻』と同じようだが、少し異なるのは、良弁を見つけたのは春日神社に参詣する途中の義淵で、杉の木にひっかかっていたのだとか。 二月堂の前の「良弁杉」は、そのいわれの木と伝えられている。 |
『大山縁起』(真名本)は良弁について・・・ 良弁は相模国由比郷の人で、僧になる前の姓は漆部氏。 優れた将軍の漆屋太郎大夫時忠の子であると伝えている。 『東大寺縁起絵巻』には、良弁僧正は相模国大隅郡漆窪という所の漆部の氏人であることが記され、『東大寺要録』にも「僧正は、相模の国人・漆部氏であることが記されている。 |
※ | 由比郷は鎌倉郡、大隅郡漆窪は現在の秦野市。 |
相模国の豪族で、大和政権から「直」(あたい)の姓が与えられ、漆部伊波(ぬりべいなみ)のときに「相模宿禰」(さがみのすくね)の姓が与えられた。 伊波は、東大寺の大仏建立に際して二万端もの商布を献上したという記録(『東大寺要録』)があることから、相模国でかなりの経済力を有し、中央とも密接な関係があったものと考えられている。 764年(天平宝字8年)には藤原仲麻呂の乱(恵美押勝の乱)の鎮圧に活躍し、『続日本紀』には、768年(神護景雲2年)に「相模宿禰」(さがみのすくね)の姓が与えられ、相模国の国造となったことが記録されている。 |
『大山縁起絵巻』や『大山縁起』に登場する漆屋太郎太夫時忠と、鎌倉由比郷の染屋太郎大夫時忠の関係は??? 同一人物だという説もある。 同一人物だとすると・・・ 『大山縁起絵巻』、『大山縁起』、『東大寺縁起絵巻』、『東大寺要録』の記録を合わせて考えると、太郎太夫時忠は、鎌倉の由比郷か、秦野の大隅郡漆窪に住んでいたということになる。 ただ、東大寺から相模国に帰った良弁が大山寺を開いていることを考えると、由比郷ではなく大隅郡の方が有力になってくるのかもしれない。 |
※ | 良弁の出生等については、近江国の百済氏の説などもある。 |
東大寺 |
大山寺 |
東大寺開山堂 |
大山寺良弁滝 |
743年(天平15年)、「大仏造顕の詔」を発した聖武天皇。 東大寺の大仏造立にあたっては表面に金を施すため大量の黄金が必要だった。 聖武天皇は、良弁に金の山と信じられていた大和国吉野の金峯山で金の産出を祈願するよう命じた。 すると・・・ 良弁の夢に蔵王権現が現われてこう告げた。 「金峯山の黄金は、弥勒菩薩が出現したときに地を覆うために使うので、大仏のためには使えない。 近江国の湖水の南に観音菩薩が現れる場所がある。 そこへ行って祈るがよい」と。 夢のお告げのとおりに石山の地を訪れた良弁は、巨大な岩の上に聖武天皇から預かった聖徳太子の念持仏(金銅如意輪観音像)を祀って祈願すると・・・ 程なく、陸奥国で黄金が産出されて祈願達成した。 しかし、観音像を移動させようとしても岩の上から離れない。 そのため、観音像を覆うように堂を建てたのが石山寺の始まりなのだという。 |
東大寺大仏 |
金峯山寺 (吉野山) |
大和長谷寺や鎌倉長谷寺の開山とされる徳道は、良弁の弟子なのだと伝えられる。 |
大和長谷寺 |
鎌倉長谷寺 |
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