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元寇とは、中国大陸を征圧したモンゴル帝国(元)の皇帝クビライによる日本侵攻のことで、1274年(文永11年)の「文永の役」と、1281年(弘安4年)の「弘安の役」のこと。 「蒙古襲来」ともいわれている。 1268年(文永5年)1月、元の使節が国書をもって訪日。 鎌倉ではこの危機に北条時宗を8代執権に就任させた。 |
元は、日本を属国にするつもりでいたが、度重なる元からの国書を幕府・朝廷は黙殺した。 その結果、1274年(文永11年)、元と高麗の連合軍が博多に上陸することになる。 元軍の激しい攻撃に日本軍は敗走してしまうが、夜中に暴風雨となり、元・高麗連合軍も艦船が破損・難破したため撤退したといわれている。 |
1275年(建治元年)は、元は杜世忠ら5人を日本に派遣し、再度日本の服属を求めるが、北条時宗は、龍ノ口でこの使節を処刑した。 藤沢片瀬の常立寺には、元国使の供養塔(元使塚)が建てられている。 |
1275年(建治元年)、肥後国の御家人竹崎季長は、文永の役での恩賞を求めて、御恩奉行の安達泰盛に面会し、領地拝領の下文を得た。 このときの様子は、のちに季長がつくらせた「蒙古襲来絵巻」に描かれている。 |
1279年(弘安2年)、後に円覚寺の開山となる無学祖元が来日し、建長寺に入った。 蒙古襲来への対応に苦慮し悩んでいた北条時宗に「莫妄想(煩悩)」の文字を与えたといわれている。 |
臨刃偈〜円覚寺開山・無学祖元(仏光国師)の逸話〜 |
幕府は、文永の役での教訓を踏まえ、博多湾周辺に「石築地」(いしついじ)を築くなどして再度の蒙古襲来に備えていた。 1281年(弘安4年)、元と高麗の連合軍は再度襲来したが、石築地の効果もあって、元と高麗の連合軍を海上に退かせることに成功している。 そして、またも暴風雨に見舞われた元と高麗の連合軍は、大きな被害を受けて撤退したという。 |
日蓮は『立証安国論』で、他国による侵略と国内の反乱を予想していたという。 |
1271年(文永8年)9月12日、『立証安国論』で元の襲来を予想していたという日蓮が、極楽寺の忍性らの告発によって、北条時宗の御内人平頼綱に捕らえられ、佐渡に流された。 |
1272年(文永9年)2月15日、北条時宗は、兄の時輔らを粛正し、元の襲来に向けて国内統制の強化に努めた。 日蓮が「国内に叛逆が起こる」と予言したのが、「二月騒動」のことだったといわれている。 |
1282年(弘安5年)、北条時宗は蒙古襲来の戦没者の供養のため、円覚寺を建立し、開山には無学祖元が迎えられた。 |
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