後鳥羽上皇の招聘に応じなかった伊賀光季の最期 |
|
『吾妻鏡』によると・・・ 1221年(承久3年)5月14日、後鳥羽上皇は、鎌倉幕府と親しくしていた西園寺公経と西園寺実氏を弓場殿に幽閉し、院中に兵を集めた。 京都守護として上洛していた伊賀光季と大江親広も招聘されたが、伊賀光季は応じなかった。 |
※ | 西園寺公経は、四代将軍として鎌倉に下向した三寅(九条頼経)の祖父。 |
『北条九代記』によると・・・ 5月14日夕刻、後鳥羽上皇は、藤原秀康・三浦胤義・大江親広・佐々木広綱・佐々木高重らに、招聘に応じなかった伊賀光季を討伐するよう命じた。 |
※ | 藤原秀康は、和田義盛の又甥ともいわれる朝廷軍の大将軍。 北条政子の演説でも名を挙げられている。 |
※ | 三浦胤義は三浦義村の弟で、北条政子の演説からすると朝廷軍の中心的人物だったと考えられる。 |
※ | 大江親広は大江広元の子。 |
※ | 佐々木広綱は佐々木定綱の子。 |
※ | 佐々木高重は佐々木経高の子。 |
院方が攻め込んでくるという情報を得た光季は、家臣に都を脱出するよう進言されたが、討死する覚悟を決める。 そして、14歳の子・寿王冠者(光綱)を呼んで、夜のうちに逃げるよう申し付けた。 しかし光綱は、 「弓矢をとる武士の子が、親が討たれようとしているのに逃げたとすれば、いくら幼いからといっても誰も許してくれないでしょう。 親を見殺しにした臆病者と指さされるのは恥ずかしいことなので、ぜひお供したいと存じます。 鎌倉を発って上京したとき母上は『こんどはいつお帰りですか』と尋ねられました。 私は『父上のお供をしてすぐに帰ってきます』と答えました。 これが最後のお別れの言葉となりました」 と言って涙をポロポロと流したのだという。 息子の立派な覚悟に光季は、一緒に討死することを決め、家臣の治部次郎に命じて光綱に武具を着けさせて、討手が攻めてくるのを待った。 夜が明けると、後鳥羽上皇に命じられた800余騎が光季の宿所を取り囲み、攻撃を開始。 光季の家臣たちはよく防戦したが、皆討死。 邸に火をかけられた光季と光綱は「今はこれまで」と言って、腹をかき切って燃え盛る火の中へ飛び込んだのだという。 |
伊賀光季は、伊賀氏の祖・伊賀朝光の子。 母は、源頼朝に仕えた文官・二階堂行政の娘。 北条義時の後妻(継室)伊賀の方の弟。 1219年(建保7年)2月14日、京都守護として上洛。 『北条九代記』は、 「鎌倉幕府の代官として京都を守護していた光季は、世間の信望とその威光に肩を並べる者もなく栄えていたが、たちまちにして滅亡して、忠義の道を全うした心が立派だった」 と伝えている。 『吾妻鏡』によると、光季は討死した5月15日に鎌倉へ飛脚を送り、後鳥羽上皇の挙兵を伝えている。 |
北条義時追討の官宣旨案 (神奈川県立歴史博物館(原本:個人蔵)) 北条義時追討の宣旨 (『承久記』(流布本)) 北条義時追討の院宣 (『承久記』(慈光寺本)) 北条義時追討の宣旨に対する返書 |
承久の乱は、後鳥羽上皇が起こした打倒北条義時の兵乱。 後鳥羽上皇方の敗北により、後鳥羽上皇・順徳上皇・土御門上皇が流され、後鳥羽上皇に加担した公家・武士などの所領は没収。 朝廷の動きや西国御家人を監視するため六波羅探題が設置された。 |
よみがえる承久の乱 −後鳥羽上皇VS鎌倉北条氏− |
|