北条義時追討の宣旨に対する返書 |
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『吾妻鏡』によると・・・ 1221(承久3年)5月27日、北条義時は5月15日に発せられた「義時追討の宣旨」を持って鎌倉に潜入し捕らえられていた院の使い(押松丸)を京都へ返すことに。 押松丸には、宣旨に対する返書を持たせている。 『北条九代記』によると、その内容は・・・ 「義時は、院に忠義を尽くしてまいりましたのに、讒言をお信じになられたことで、違勅の者とされました。 そのため、弟の時房、子の泰時・朝時をはじめとする十九万騎の軍勢を上洛させます。 それでもお考え違いなさっているときは、子の重時・政村をはじめとする二十万騎を率いて、義時自身が参上いたしましょう」 『吾妻鏡』・『北条九代記』によると・・・ 6月1日、京都に着いた押松丸は御所に参上。 「義時の首は誰が取った?」 「義時はどこへ逃げた?」 という質問が相次いだのだという。 後鳥羽上皇も関東の情勢について尋ねるが・・・ 押松丸が、 「三浦胤義の手紙を三浦義村が受け取って義時に見せてからは、鎌倉が騒然とし、諸国から兵が集まり、官軍と戦うために上洛してくる関東武士は幾千万にも及びます」 と報告すると、院中の人々は驚くほかなかったのだという。 |
※ | 押松は、藤原秀康の従者。 |
三浦義村が北条義時に弟胤義から送られてきた手紙を見せる場面。 『吾妻鏡』によると、胤義が義村に送った手紙には「勅命にしたがって義時を追討するように」と書かれていたのだという。 |
北条義時追討の官宣旨案 (神奈川県立歴史博物館(原本:個人蔵)) 北条義時追討の宣旨 (『承久記』(流布本)) 北条義時追討の院宣 (『承久記』(慈光寺本)) |
城南宮は、平安京の南に鎮座する神社。 北条義時追討を決めた後鳥羽上皇は、城南流鏑馬の武者揃えと称して兵を募ったのだという。 |
「山はさけ海はあせなむ世なりとも君にふた心わがあらめやも」 山が裂けて海が干上がってしまうような世になってしまっても、上皇様を裏切るような心は私にはありません。 こう詠んでいた源実朝が暗殺されると、それまで良好だった幕府と後鳥羽上皇の関係が急速に悪化していった。 |
承久の乱は、後鳥羽上皇が起こした打倒北条義時の兵乱。 後鳥羽上皇方の敗北により、後鳥羽上皇・順徳上皇・土御門上皇が流され、後鳥羽上皇に加担した公家・武士などの所領は没収。 朝廷の動きや西国御家人を監視するため六波羅探題が設置された。 |
よみがえる承久の乱 −後鳥羽上皇VS鎌倉北条氏− |
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