鎌倉手帳(寺社散策)

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北条義時追討の院宣
~承久の乱:『承久記』(慈光寺本)~

編集:yoritomo-japan.com







 『承久記』(慈光寺本)に掲載されている北条義時追討の院宣。


被院宣偁、故右大臣薨去後、家人等偏可仰聖断之由令申。

仍義時朝臣可為奉行仁歟之由、思食之処、三代将軍之遺跡、称無人于管領、種々有申旨之間、依被優勲功職、被迭摂政子息畢。

然而幼齢未識之間、彼朝臣稟性於野心、借権於朝威、論之政道豈可然乎。

仍自今以後、停止義時朝臣奉行、併可決叡襟若不拘此御定、猶有反逆之企者、早可殞其命。

於殊功之輩者、可被加褒美也。

宜令存此旨者、院宣如此。

悉之以状。

承久三年五月十五日 按察使光親奉



 慈光寺本『承久記』によると、

 北条義時追討の院宣は、武田信光小笠原長清小山朝政宇都宮頼綱・長沼宗政・足利義氏・北条時房三浦義村に下され、5月16日寅刻(午前4時頃)、押松(使者・院の下部)が京を出発。

 鎌倉に到着したのは19日の申刻(午後4時頃)のこと。

 酉刻(午後6時頃)には、伊賀光季の使者も鎌倉に到着して、北条政子のもとへ参じている。

 鎌倉中に触れを出した政子のもとへは、武田信光・小笠原長清・小山朝政・宇都宮頼綱・長沼宗政・足利義氏が参集。

 政子が「鎌倉を攻めることは、大将殿(源頼朝)と大臣殿(源実朝)の二人の墓所を馬の蹄に蹴らせるようなもの・・・」

 と説くと、武田信光が鎌倉に味方することを約束し、皆それに賛同したのだという。


院宣は、上皇からの命を受けて発出される文書。

伊賀光季は後鳥羽上皇の招聘に応じず誅殺されている(伊賀光季の最期)。

院宣とともに、天皇の命を受けて発出される宣旨も発出されている。


~届かなかった院宣と官宣旨~

 慈光寺本『承久記』によると、伊賀光季の使者によって後鳥羽上皇が兵を集めていることを知った北条政子は、直ちに鎌倉の谷七郷に押松の探索を命じている。

 『吾妻鏡』によると、葛西谷の山里殿あたりに潜んでいた押松を捕え、宣旨と源光行が添えた訴状を押収していることから、東国の御家人には院宣と官宣旨は届かなかったらしい。


リンクボタン北条義時追討の官宣旨案
(神奈川県立歴史博物館(原本:個人蔵))

リンクボタン北条義時追討の宣旨
(『承久記』(流布本))

リンクボタン北条義時追討の宣旨に対する返書
(『吾妻鏡』・『北条九代記』)


~北条政子の演説~

 これまでの通説では、後鳥羽上皇は鎌倉幕府を倒すために挙兵したと解されてきたが、院宣や官宣旨の内容などから、近年では北条義時個人を幕府から排除することが目的だったとする説がある。

 また、北条政子が御家人を集めて行った演説は、義時追討を鎌倉幕府討滅にすり替えるためのものだったという説も・・・


北条政子が御家人に説いた事
(『吾妻鏡』)
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北条政子の言葉


慈光寺本『承久記』だとこうなる!
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リンクボタン北条政子の演説



城南宮
リンクボタン城南宮

 城南宮は、平安京の南に鎮座する神社。

 後鳥羽上皇は、城南流鏑馬の武者揃えと称して兵を募ったのだという。



源実朝歌碑
リンクボタン源実朝の歌碑
(鶴岡八幡宮)

 「山はさけ海はあせなむ世なりとも君にふた心わがあらめやも」

 山が裂けて海が干上がってしまうような世になってしまっても、上皇様を裏切るような心は私にはありません。

 こう詠んでいた源実朝が暗殺されると、それまで良好だった幕府と後鳥羽上皇の関係が急速に悪化していった。


源実朝の暗殺







承久の乱

 承久の乱は、後鳥羽上皇が起こした鎌倉幕府打倒の兵乱。

 後鳥羽上皇方の敗北により、後鳥羽上皇・順徳上皇・土御門上皇が流され、後鳥羽上皇に加担した公家・武士などの所領は没収。

 朝廷の動きや西国御家人を監視するため六波羅探題が設置された。

宇治川の戦い~承久の乱~



京都文化博物館特別展

リンクボタンよみがえる承久の乱
-後鳥羽上皇VS鎌倉北条氏-

2021/4/6(火)~5/23(日)

よみがえる承久の乱







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