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『承久記』(慈光寺本)に掲載されている北条義時追討の院宣。 |
被院宣偁、故右大臣薨去後、家人等偏可仰聖断之由令申。 仍義時朝臣可為奉行仁歟之由、思食之処、三代将軍之遺跡、称無人于管領、種々有申旨之間、依被優勲功職、被迭摂政子息畢。 然而幼齢未識之間、彼朝臣稟性於野心、借権於朝威、論之政道豈可然乎。 仍自今以後、停止義時朝臣奉行、併可決叡襟若不拘此御定、猶有反逆之企者、早可殞其命。 於殊功之輩者、可被加褒美也。 宜令存此旨者、院宣如此。 悉之以状。 承久三年五月十五日 按察使光親奉 |
内容は以下のようなものなのかと・・・ 右大臣源実朝亡き後、御家人らが後鳥羽上皇の判断を仰いできたので、上皇は、 「北条義時を新しい主君の命を執行する担当者に」 と考えていた。 ところが、 「鎌倉には三代将軍の跡を継ぐ者がいない」 と訴えてきたので、摂政の子息・三寅に継がせた。 しかし・・・ 義時は三寅が幼いのをいいことに、野心を抱き、朝廷の威光を利用して自分に従わせようと考えた。 したがって、義時の職務執行を停止し、すべてを天子のお心で決することとする。 この決定に従わない者は間もなく命を落とすことになるだろう。 功のあった者には褒美を与える。 |
※ | 院宣を書いたのは葉室光親。 承久の乱後、誅殺されている。 |
合戦張本の公卿 (誅殺された五人の公卿) |
高陽院は、後鳥羽上皇の院御所。 ここで北条義時追討の謀議が行われ、院宣が発せられた。 |
慈光寺本『承久記』によると・・・ 北条義時追討の院宣は、武田信光・小笠原長清・小山朝政・宇都宮頼綱・長沼宗政・足利義氏・北条時房・三浦義村に下され、5月16日寅刻(午前4時頃)、押松(使者・院の下部)が京を出発。 鎌倉に到着したのは19日の申刻(午後4時頃)のこと。 酉刻(午後6時頃)には、伊賀光季の使者も鎌倉に到着して、北条政子のもとへ参じている。 鎌倉中に触れを出した政子のもとへは、武田信光・小笠原長清・小山朝政・宇都宮頼綱・長沼宗政・足利義氏が参集。 政子が、 「鎌倉を攻めることは、大将殿(源頼朝)と大臣殿(源実朝)の二人の墓所を馬の蹄に蹴らせるようなもの・・・」 と説くと、武田信光が鎌倉に味方することを約束し、皆それに賛同したのだという。 |
※ | 院宣は、上皇からの命を受けて発出される文書。 |
※ | 伊賀光季は後鳥羽上皇の招聘に応じず誅殺されている(伊賀光季の最期)。 |
※ | 院宣とともに、天皇の命を受けて発出される宣旨も発出されている。 |
武田信光と小笠原長清は甲斐源氏。 武田氏は、清和源氏の一流で河内源氏の流れをくむ新羅三郎義光を祖とする源氏の名門で甲斐源氏の宗家。 小笠原氏は、甲斐源氏の庶流だが、高倉天皇から小笠原の姓を賜り、家格としては武田氏と並んでいた。 足利義氏は下野源氏。 足利氏は、清和源氏の一流で河内源氏の流れをくむ源義国を祖とする源氏の名門。 この三家の家格は北条氏よりも上。 小山朝政・宇都宮頼綱・長沼宗政は下野国の有力御家人。 朝政と宗政は小山政光の子で、頼綱は小山政光の猶子。 小山政光は源頼朝の乳母寒河尼の夫。 北条時房は義時の弟だが・・・ 1218年には北条政子の上洛に従い、翌1219年にも上洛し、後鳥羽上皇から蹴鞠の腕を認められていたらしい。 三浦義村は鎌倉幕府の有力御家人だが、後鳥羽上皇の招聘に従った三浦胤義の兄。 胤義は「兄の義村は必ず味方する」と語っていたらしい。 |
慈光寺本『承久記』によると・・・ 伊賀光季の使者によって後鳥羽上皇が兵を集めていることを知った北条政子は、直ちに鎌倉の谷七郷に院宣を運んだ押松の探索を命じている。 『吾妻鏡』によると・・・ 葛西谷の山里殿あたりに潜んでいた押松を捕え、宣旨と源光行が添えた訴状を押収していることから、東国の御家人には院宣と官宣旨は届かなかったらしい。 |
※ | 押松は、朝廷軍の大将軍・藤原秀康の従者。 |
北条義時追討の官宣旨案 (神奈川県立歴史博物館(原本:個人蔵)) 北条義時追討の宣旨 (『承久記』(流布本)) 北条義時追討の宣旨に対する返書 (『吾妻鏡』・『北条九代記』) |
これまでの通説では、後鳥羽上皇は鎌倉幕府を倒すために挙兵したと解されてきたが、院宣や官宣旨の内容などから、近年では北条義時個人を幕府から排除することが目的だったとする説がある。 また、北条政子が御家人を集めて行った演説は、義時追討を鎌倉幕府討滅にすり替えるためのものだったという説も・・・ |
城南宮は、平安京の南に鎮座する神社。 後鳥羽上皇は、城南流鏑馬の武者揃えと称して兵を募ったのだという。 |
「山はさけ海はあせなむ世なりとも君にふた心わがあらめやも」 山が裂けて海が干上がってしまうような世になってしまっても、上皇様を裏切るような心は私にはありません。 こう詠んでいた源実朝が暗殺されると、それまで良好だった幕府と後鳥羽上皇の関係が急速に悪化していった。 |
承久の乱は、後鳥羽上皇が起こした打倒北条義時の兵乱。 後鳥羽上皇方の敗北により、後鳥羽上皇・順徳上皇・土御門上皇が流され、後鳥羽上皇に加担した公家・武士などの所領は没収。 朝廷の動きや西国御家人を監視するため六波羅探題が設置された。 |
よみがえる承久の乱 -後鳥羽上皇VS鎌倉北条氏- |
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