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1221年(承久3年)5月15日、後鳥羽上皇が北条義時追討の挙兵をすると、5月22日、幕府軍は東海道・東山道・北陸道の三道に分けて総勢19万騎で京都に向けて進軍を開始した。 東海道の大将軍:北条時房・北条泰時らは6月12日に近江国野路に到達。 翌13日、時房は雨の中を瀬田へ出陣。 『吾妻鏡』によると・・・ 瀬田橋の中ほどの二間分の敷板が引き落とされ、その向こうには楯を並べ弓矢を構えた朝廷軍と比叡山の僧兵達が並んでいた。 『承久記』によると・・・ 朝廷軍の大将は山田重忠。 幕府軍は橋を渡ろうと攻め込むが、朝廷軍に矢を射かけられ、僧兵の長刀で切り落とされてしまう。 この攻防で、幕府軍の主力の一人だった熊谷直国(熊谷直実の孫)が討死した。 その中で、宇都宮頼業(宇都宮頼綱の子)は遠矢を射て奮戦。 そこへ、信濃国の住人福地俊政と書きつけられた矢が頼業の冑の鉢に当たった。 放ってはおけぬと頼業も自分の名を書きつけた矢を放つ。 すると、矢は三町余り(300メートル以上)も飛んで大将の山田重忠の傍に突き刺さったのだとか・・・ その後、朝廷軍は船から幕府軍を攻めたが、頼業に法師二人が射られると退いていった。 それは見ていた北条時房が「戦いは今日ばかりではない。矢種を尽くさないように」と命じたので、この日の戦いは終わったのだという。 |
かつては、「瀬田橋を制するものは全国を制す」と言われ、宇治橋とともに京都防衛上の要衝だった瀬田橋。 1184年(寿永3年)の木曽義仲追討では、源範頼が瀬田から攻めて、義仲を粟津で滅ぼしている。 |
北条時房軍が瀬田橋で合戦をしている頃、宇治橋でも北条泰時が朝廷軍と合戦を始めていた(宇治川の戦い)。 瀬田と宇治で朝廷軍を破った幕府軍は、6月15日、京市中に入っっている。 |
宇治橋では、1180年(治承4年)に以仁王と源頼政が平家軍と戦い、1184年(元暦元年)には、源義経が宇治川を突破して木曽義仲を敗走させた。 |
承久の乱は、後鳥羽上皇が起こした打倒北条義時の兵乱。 後鳥羽上皇方の敗北により、後鳥羽上皇・順徳上皇・土御門上皇が流され、後鳥羽上皇に加担した公家・武士などの所領は没収。 朝廷の動きや西国御家人を監視するため六波羅探題が設置された。 『吾妻鏡』よると、北条政子は、承久の乱に勝利できたのは「半分以上は泰時の手柄によるもの」と語っている。 |
よみがえる承久の乱 −後鳥羽上皇VS鎌倉北条氏− |
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