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藤 原 秀 康

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 藤原秀康(ふじわらのひでやす)は、後鳥羽上皇の近臣。

 「和田義盛は大伯父」という説もあるが詳細は不明。

 承久の乱の朝廷軍の大将軍。





〜合戦の張本〜

 『承久記』(慈光寺本)によると・・・

 1221年(承久3年)、後鳥羽上皇から北条義時追討の沙汰を命じられた秀康は、三浦義村の弟三浦胤義を上皇側に引き入れ、5月15日、後鳥羽上皇の招聘に応じなかった京都守護の伊賀光季を胤義らとともに誅殺。

 『吾妻鏡』によると・・・

 同日、北条義時追討の宣旨が発せられると、従者の押松丸を使って関東に運ばせている。


リンクボタン三浦義村の弟・胤義

リンクボタン伊賀光季の最期



 5月19日、押松丸が捕らえられ、三浦胤義の密書が三浦義村のもとに届けられたことで、後鳥羽上皇の挙兵が幕府にも伝わった。

 動揺する御家人を前に演説したという北条政子は、秀康と胤義を名指しして討ち取るよう命じている。


北条政子の言葉





〜軍事的才能がない大将軍〜

 『吾妻鏡』によると・・・

 5月22日、北条泰時が上洛するため出陣。

 25日には東国の武士のほとんどが上洛を開始する。
 
 秀康は、これを迎え撃つため弟の秀澄とともに大将軍として出陣するが、6月6日、幕府軍が木曽川の摩免戸(まめど)を渡ると戦わずして退却。

 その後、朝廷軍は瀬田宇治でも敗れ、合戦の張本として次々に公卿が捕られる中、秀康は逐電。

 9月には南都に潜んでいることが判明し北条時房が捜索させたが逃亡。

 10月6日になって河内国で弟の秀澄とともに捕らえられ、六波羅に送られた後、斬首となったらしい。

 『吾妻鏡』は、天下乱逆の根源は秀康と秀澄の謀計によって起きたものと伝えている。


リンクボタン幕府の大軍に立ちはだかった鏡久綱〜承久の乱:摩免戸の戦い〜

リンクボタン合戦張本の公卿
(処刑された五人の公卿)





承久の乱


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リンクボタン瀬田の合戦〜宇都宮頼業の活躍〜

リンクボタン宇治川の戦い

リンクボタン三浦義村の弟・胤義









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