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『承久記』(慈光寺本)によると・・・ 東山道の大将軍は甲斐源氏の武田信光と小笠原長清。 軍勢が美濃国に到着したときのこと。 長清が 「現世は無常な所である。 いかがか武田殿」 と問いかけると信光は、 「鎌倉が勝てば鎌倉につき、京方が勝てば京方につく それが弓矢の道の習わしである」 と返したのだとか。 恩賞をもらうために戦うのが武士。 負ける側についていても意味がない。 このような考えを持っていると予想していたという東海道の大将軍北条時房は・・・ 「大井戸・河合の渡河に成功したならば、美濃・尾張・甲斐・信濃・常陸・下野六ヶ国を与える」 という書状を信光と長清に送ったのだという。 すると、 信光と長清の東山道軍は、大井戸渡に布陣する京方2万騎を撃破したのだとか。 『吾妻鏡』によると、幕府軍が大井戸渡を渡ると、朝廷軍は大将軍の大内惟信が逃亡。 筑後有長・糟谷久季が負傷。 藤原秀康・佐々木広綱・三浦胤義も逃亡。 『承久記』によると、この戦いで戦死したという高桑大将軍が承久の乱での戦死者第一号なのだとか。 |
※ | 大内惟信は、大内惟義の嫡男。 牧氏の変で誅殺された平賀朝雅は叔父にあたる。 |
※ | 佐々木広綱は佐々木定綱の子。 |
※ | 高桑大将軍は美濃源氏・高桑一族の長らしいが実名は不明。 |
合戦場の正確な場所はわかっていないが、中山道太田宿(美濃加茂市)の虚空蔵堂辺りが北端と考えられている。 岐阜県美濃加茂市太田本町5−3 |
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幕府の大軍に立ちはだかった鏡久綱〜承久の乱:摩免戸の戦い〜 承久の乱と関ヶ原 |
『承久記』(慈光寺本)によると・・・ 後鳥羽上皇が北条義時追討の院宣を発したときの北条政子の演説では、武田信光が鎌倉に味方することを表明。 すると、意義を唱える者はなかったのだという。 |
北条政子の言葉(『吾妻鏡】) 北条政子の演説(『承久記』) 北条義時追討の院宣 (『承久記』(慈光寺本)) |
承久の乱は、後鳥羽上皇が起こした打倒北条義時の兵乱。 後鳥羽上皇方の敗北により、後鳥羽上皇・順徳上皇・土御門上皇が流され、後鳥羽上皇に加担した公家・武士などの所領は没収。 朝廷の動きや西国御家人を監視するため六波羅探題が設置された。 |
よみがえる承久の乱 −後鳥羽上皇VS鎌倉北条氏− |
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