![]() |
![]() |
![]() |
![]() |
|
『承久記』(慈光寺本)によると・・・ 東山道の大将軍は甲斐源氏の武田信光と小笠原長清。 軍勢が美濃国に到着したときのこと。 長清が 「現世は無常な所である。 いかがか武田殿」 と問いかけると信光は、 「鎌倉が勝てば鎌倉につき、京方が勝てば京方につく それが弓矢の道の習わしである」 と返したのだとか。 恩賞をもらうために戦うのが武士。 負ける側についていても意味がない。 このような考えを持っていると予想していた東海道の大将軍北条時房は、 「大井戸・河合の渡河に成功したならば、美濃・尾張・甲斐・信濃・常陸・下野六ヶ国を与える」 という書状を信光と長清に送ったのだという。 すると、 信光と長清の東山道軍は、大井戸渡に布陣する京方2万騎を撃破したのだとか。 |
『承久記』(慈光寺本)によると・・・ 後鳥羽上皇が北条義時追討の院宣を発したときの北条政子の演説では、武田信光が鎌倉に味方することを表明。 すると、意義を唱える者はなかったのだという。 |
![]() ![]() ![]() (『承久記』(慈光寺本)) |
承久の乱は、後鳥羽上皇が起こした打倒北条義時の兵乱。 後鳥羽上皇方の敗北により、後鳥羽上皇・順徳上皇・土御門上皇が流され、後鳥羽上皇に加担した公家・武士などの所領は没収。 朝廷の動きや西国御家人を監視するため六波羅探題が設置された。 |
![]() −後鳥羽上皇VS鎌倉北条氏− |
7年に一度の御開帳![]() |
60年に一度の祭礼![]() |
![]() |
![]() |
![]() |
![]() |
|