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『吾妻鏡』によると・・・ 1221年(承久3年)6月24日、承久の乱の首謀者とされる葉室光親・葉室宗行・源有雅・藤原範茂が六波羅に身柄を渡され、それぞれ、武田信光・小山朝長・小笠原長清・北条朝時に預けられた。 翌日にも坊門忠信・一条信能が引き渡されて千葉胤綱・遠山景朝に預けられ、僧の長賢・観厳が結城朝光に預けられている。 7月1日、これらの公卿らを「断罪に処すべし」との宣旨が出されると・・・ 北条泰時は罪人の身柄を預かっている御家人に対し、関東へ連行するよう命じている。 鎌倉からは京市中で首を斬るよう命が下されていたが、泰時は斬首は市街で行った方が良いと考えたのだという。 翌日には、西面の武士として朝廷軍についた御家人の後藤基清・五条有範・佐々木広綱・大江能範が梟首されている。 7月5日、一条信能が美濃国で処刑される。 7月12日、葉室光親が駿河国で処刑される。 7月14日、葉室宗行が駿河国藍沢原で処刑される。 7月18日、藤原範茂が足柄山の麓で入水。 7月29日、源有雅が甲斐国で処刑される。 坊門忠信は・・・ 8月1日、遠江国舞沢まで連行されたが、妹の八条禅尼が源実朝の正妻であったことから、北条政子の申し入れで許されたのだという。 参考までに・・・ 北条政子に逆臣と名指しされた藤原秀康は、乱後に逐電し、10月になって河内国で捕らえられ斬首されている。 |
藤原範茂は、首を斬られるのを避けるため入水したのだという。 |
藍沢五卿神社は、「合戦の張本」とされ駿河国藍沢原で処刑された葉室宗行(藤原宗行)を祀るために創建された社。 のちに、他の四人(葉室光親・源有雅・藤原範茂・一条信能)も合祀されている。 |
承久の乱は、後鳥羽上皇が起こした打倒北条義時の兵乱。 後鳥羽上皇方の敗北により、後鳥羽上皇・順徳上皇・土御門上皇が流され、後鳥羽上皇に加担した公家・武士などの所領は没収。 朝廷の動きや西国御家人を監視するため六波羅探題が設置された。 |
よみがえる承久の乱 −後鳥羽上皇VS鎌倉北条氏− |
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