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承久3年5月15日付けの「官宣旨案」は、京都の小松家に伝来した文書。 |
次期鎌倉殿の九条三寅(のちの四代将軍頼経)が幼いなかで、不当な裁断を下している北条義時の追討を命ずるとともに、諸国荘園の守護地頭等に院の裁断に従うよう命じたもの。 『吾妻鏡』にも、義時追討の宣旨が五畿七道に下されたことが記録されている。 |
※ | 宣旨は、天皇の命を受けて発出される文書。 |
北条義時追討の宣旨 (『承久記』(流布本)) |
※ | 『承久記』(慈光寺本)には、上皇からの命を受けて発出される院宣が掲載されている。 |
北条義時追討の院宣 (『承久記』(慈光寺本)) |
『吾妻鏡』によると、葛西谷の山里殿あたりに潜んでいた院の使者を捕え、宣旨と源光行が添えた訴状を押収していることから、東国の御家人には官宣旨は届かなかったらしい。 |
北条義時追討の宣旨に対する返書 (『吾妻鏡』・『北条九代記』) |
これまでの通説では、後鳥羽上皇は鎌倉幕府を倒すために挙兵したと解されてきたが、院宣や官宣旨の内容などから、近年では北条義時個人を幕府から排除することが目的だったとする説がある。 また、北条政子が御家人を集めて行った演説は、義時追討を鎌倉幕府討滅にすり替えるためのものだったという説も・・・ |
城南宮は、平安京の南に鎮座する神社。 後鳥羽上皇は、城南流鏑馬の武者揃えと称して兵を募ったのだという。 |
「山はさけ海はあせなむ世なりとも君にふた心わがあらめやも」 山が裂けて海が干上がってしまうような世になってしまっても、上皇様を裏切るような心は私にはありません。 こう詠んでいた源実朝が暗殺されると、それまで良好だった幕府と後鳥羽上皇の関係が急速に悪化していった。 |
承久の乱は、後鳥羽上皇が起こした打倒北条義時の兵乱。 後鳥羽上皇方の敗北により、後鳥羽上皇・順徳上皇・土御門上皇が流され、後鳥羽上皇に加担した公家・武士などの所領は没収。 朝廷の動きや西国御家人を監視するため六波羅探題が設置された。 |
よみがえる承久の乱 −後鳥羽上皇VS鎌倉北条氏− |
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