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高陽院(かやのいん)は、藤原頼通の邸宅。 もとは、桓武天皇の皇子・賀陽親王(かやしんのう)の邸宅だったため賀陽院とも呼ばれる。 高陽院は、四町(250m四方)にも及ぶ寝殿造りの大邸宅で、四方は池で囲まれ四季の庭が配されていた。 1024年(万寿元年)、後一条天皇が行幸した際には競馬が催されている。 摂関家の邸宅には馬場が設けられ、藤原兼家の二条殿・藤原道長の土御門殿にも馬場が設けられていたのだという。 藤原実資の『小右記』には、高陽院の豪華絢爛な様子とともに馬場殿があったことが記されている。 頼通が宇治の平等院に隠棲した後は、後朱雀天皇・後冷泉天皇・後三条天皇・白河天皇の里内裏として使用された。 鳥羽上皇の皇后・藤原泰子は、ここに住んだことから「高陽院」を称している。 鎌倉時代には後鳥羽上皇の院御所となり、1221年(承久3年)の承久の乱では、ここに兵が集められ、北条義時追討の院宣が発せられた。 1223年(貞応2年)に焼失。 |
平等院は、藤原道長の別荘「宇治殿」に頼通が建立した寺。 道長の法成寺をモデルとしたのだという。 頼通は平等院で薨去し、その近辺で火葬され、宇治陵に葬られたと考えられている。 |
城南宮は、平安京の南に鎮座する神社。 後鳥羽上皇は、城南流鏑馬の武者揃えと称して兵を募ったのだという。 |
四町にも及ぶ大邸宅というと・・・ 紫式部の『源氏物語』に登場する光源氏の邸宅・六条院も四町を占める広大な寝殿造の邸宅だった。 |
京都市中京区小川通丸太町 |
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