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守山の北西、狩野川の東岸にあった北条氏の館跡。 北条氏は、桓武平氏平直方の子孫・時方の代に伊豆介として北条郷に赴任し、北条を名乗ったといわれているが、その系図は諸説あって定かではない(参考:鎌倉北条九代)。 北条時方の子とされる時政は、蛭ヶ小島に流されていた源頼朝の挙兵を援け、鎌倉幕府創設に尽力した。 頼朝亡き後も将軍家の外戚として執権の地位に就き権力をふるったが、後妻の牧の方と謀って平賀朝雅を将軍に立てようとして失脚(参考:牧の方の陰謀)。 その後、次男義時が執権となり、承久の乱を乗り越え、北条氏の地位を堅固たるものとした(参考:北条執権政治)。 館が使用されていたのは三代執権北条泰時の頃までと考えられている。 |
1180年(治承4年)4月27日、源頼朝が以仁王の平家打倒の令旨を受け取ったのは北条館だった。 |
狩野川の西岸は江間。 北条義時は北条の分家の江間家の初代と考えられ、江間には北条義時邸があったと伝えられている。 |
1333年(元弘3年)、鎌倉幕府が滅びると、北条高時の母覚海円成をはじめとする一族の女性が韮山に移り住み、北条氏邸跡に円成寺(えんじょうじ:尼寺)を建立して北条一族の冥福を祈った。 室町時代には足利直義が円成寺に周辺の支配を認め、関東管領を務めた上杉家の娘などが尼として入って繁栄したのだという。 |
韮山金谷の本立寺には、覚海円成が造らせたという梵鐘が残されている。 この鐘は鎌倉・東慶寺にあったもの(参考:東慶寺の梵鐘)。 鎌倉幕府滅亡後、韮山に移り住んだ覚海円成が東慶寺から円成寺に移したものと考えられ、江戸中期に円成寺が焼失した後、本立寺へ移されたものと考えられる。 |
東慶寺梵鐘と覚海円成〜伊豆の国市:本立寺の梵鐘〜(okadoのブログ) |
源頼朝の挙兵を助け、鎌倉幕府創設に尽力した北条時政の館は、北条氏ゆかりの成福寺の境内を含む広大な土地だったと考えられている。 時政が頼朝と政子のために別邸を築いたのが成福寺辺りとされている。 |
成福寺 |
北条政子 産湯の井戸 |
守山八幡宮 |
願成就院 |
守山の東側中腹には守山八幡宮があって、源頼朝が源氏再興を祈願したのだという。 願成就院は、守山の東側の麓に北条時政が創建した北条氏の氏寺。 |
静岡県伊豆の国市寺家・中条 伊豆箱根鉄道駿豆線韮山駅から徒歩25分 |
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