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三島神社は、賀茂郡白浜にあった三嶋大社が田方郡(現在地)に遷座する際、その途中の富戸が神徳に浴したことから祀られたのだという。 元の名称である「御島」は伊豆諸島の尊称と考えられ、「三嶋神」は伊豆諸島の「御島神」を意味するのだとか。 現在の本殿は1803年(享和3年)の建立。 祭神は事代主命(ことしろぬしのみこと)。 源頼朝と八重姫の子・千鶴丸を相殿に祀る(若宮八幡)。 |
三嶋大社は伊豆国一ノ宮。 創建は不明だが、通説では賀茂郡三島郷、賀茂郡大社郷白浜、そして田方郡小河郷の伊豆国府(現社地)へ遷座されたのだという。 |
琵琶湖に西岸・堅田の浮御堂近くに鎮座する伊豆神社は、三嶋大明神を勧請した社。 社名は、鎮座する堅田の地が三嶋の地に似ていたため伊豆となったのだとか。 堅田は、平安時代に京都の下鴨神社の御厨となったことから、琵琶湖の魚を下鴨神社に献上していたのだという。 葵祭の前日には献饌供御人行列が再現される。 |
1160年(永暦元年)3月、前年の平治の乱で平清盛に敗れて伊豆国流罪となった源頼朝。 やがて、伊東祐親の三女八重姫と結ばれて、男子を授かり千鶴丸と名付けて大切に育てていたが・・・ それを知った祐親は、清盛に咎められることを怖れ、家来に命じて千鶴丸を腰に石の重しをつけて八代田の川に沈めて殺害。 その場所は、後に「稚児ヶ淵」と呼ばれるようになったのだという。 伝説によると、 その後、石の重しがとれた千鶴丸の遺体は、川を下って富戸の海岸に流れ着き、それを釣をしていた甚之右衛門が発見して葬ったのだと伝えられている。 その際、甚之右衛門が遺体を安置した石が宇根展望台にある産衣石なのだとか。 その後、千鶴丸は若宮八幡として三島神社に祀られたのだという。 |
伝説によると、遺体で発見された千鶴丸は橘の枝を握っていた。 それは、千鶴丸が稚児ヶ淵に連れて行かれる途中の鎌田神社で、花の香りを漂わせていた橘の枝を家臣が二本折って慰めに持たせたものだった。 それを甚之右衛門が社前に刺したところ根付き、数年間成長を続けたが枯死してしまったのだという。 現在、社前の左側に植えられている橘は、1933年(昭和8年)に社前の両側に植えられたうちの一本。 右側は枯れてしまったのだという。 |
産衣石は、三島神社の南の海岸にある石。 千鶴丸の遺体は、この石の上に安置され、衣服が乾かされた後に葬られたのだという。 |
恋仲となった源頼朝と八重姫は、「おとなしの森」で愛を育んだのだという。 |
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音無神社は、源頼朝が八重姫との密会を重ねたという「おとなしの森」に鎮座する神社。 日暮八幡神社は、頼朝が八重姫に会うために日暮れになるのを待ったという「ひぐらしの森」に鎮座する神社。 |
最誓寺は、千鶴丸の菩提を弔うために創建されたと伝えられている。 |
千鶴丸が殺害された後、源頼朝も命を狙われ、走湯権現(現在の伊豆山神社)に逃れた。 その途中で喉の渇きを潤したのが一杯水で、のちに一杯水の傍らに千鶴丸を供養するための地蔵尊が祀られたのだという。 |
伊東市富戸686 伊豆急行伊豆急行線「富戸駅」から徒歩10分 (※行き下りだが帰りは急な上り坂) |
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