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真珠院は、鎌倉時代に真言宗の寺として開創され、室町時代に曹洞宗に改宗された寺院。 本尊は釈迦牟尼仏。 境内には、源頼朝との悲恋に死んだ伊東祐親の娘八重姫の供養塔がある。 伊豆に流されていた頼朝は、八重姫との間に一子千鶴丸をもうけるが、祐親の怒りにあい、千鶴丸は川に捨てられ、頼朝も襲撃を受けそうになった。 頼朝は北条時政のもとに逃れたが、頼朝のことを忘れられない八重姫は、伊東館を抜け出し、頼朝のいる北条館を訪ねる・・・ しかし、頼朝は、時政の娘政子と結ばれていたのだという。 伊東館に帰ることもできない八重姫は、寺の南にあったという真珠ヶ淵の渦巻く流れの中に身を投げたのだと伝えられている。 真珠院の開創年等は不明だが、頼朝の異母弟の阿野全成が、同母弟の義円や義経の追福のために建てたという説もあるらしい。 |
八重姫御堂は、源頼朝との悲恋に死んだ八重姫を祀る堂で、もとは真珠院の北側の満願寺(廃寺)にあった。 堂内には、八重姫の木像と供養塔が安置されている。 『豆州志稿』によると、満願寺は伊東祐親の末娘・静(八重姫)の追福のために建てられた寺院で「静ノ墓」があったのだという。 また、『増訂豆州志稿』によると、「静ノ墓」は1867年(慶応3年)に真珠院に移されたのだという。 (参考:伊東祐親の娘八重姫との恋) |
※ | 静という名が源義経の愛妾静御前と同じことから、満願寺が静御前の開基などといった伝説もあるらしい。 |
八重姫御堂には小さな梯子が納められている。 八重姫が入水したときに「せめて梯子があれば救うことができた」という里人たちの気持ちから始まったもの。 願い事が成就したときに、そのお礼参りとして梯子を供える習慣が残されるようになったのだという。 |
4月第二日曜日には、「八重姫まつり」(八重姫梯子供養祭)が行われる。 |
八重姫御堂右前の大木は、那木(和木)といって、葉が横に裂けず「愛のお守り」として、また、「家族平穏のお守り」として功徳がある。 (参考:頼朝と政子の愛の証「椰の葉」)。 |
八重姫御堂左前の願かけ石は、自分の歳の数だけ石をたたくと願い事が必ず成就すると伝えられている。 |
桜吹雪に 木洩れ陽の 揺れて無情の 憂いあり 伊豆韮山の 中條に 立てば遠き 空の果て 侍女に守られ 八重姫は 頼朝公を 御慕い 悲恋はかなく 落葉舟 真珠ヶ淵の 渦の中 里人出でて 走れども 岸高くして 底深く 夕暮れせまり いかにせん 救わせたまえ 姫の身を 那木の木末の そよぐ下 供養の塔に かけられし 小さき梯子 数いくつ 治承の昔 偲ばれる |
八重姫に従っていた侍女6人が、真珠ヶ淵に身を投げた八重姫を葬り弔ったのが真珠院の始まりともいわれる。 八重姫を葬った侍女たちは、伊東へ帰る途中で自害したのだという。 碑には「八重姫 治承4年7月16日真珠ヶ淵に入水。侍女 同日大仁田中山にて自害」と記されている。 |
音無神社 (伊東市) |
日暮神社 (伊東市) |
音無神社は、源頼朝が八重姫との密会を重ねたという「おとなしの森」に鎮座する神社。 日暮神社は、源頼朝が日暮れになるのを待ったという「ひぐらしの森」に鎮座する神社。 |
産衣石 (伊東市) |
最誓寺 (伊東市) |
富戸にある産衣石は、千鶴丸の伝説が残された石。 伊東祐親に殺された千鶴丸は、この場所に流れ着いて、甚之右衛門という漁師に葬られたのだと伝えられている。 最誓寺は、千鶴丸の菩提を弔うために八重姫と北条義時の発願によって創建されたと伝えられている。 |
この五輪塔は定仙大和尚塔と呼ばれ、正安4年(1304年)の銘のある静岡県内最古のもの。 四方に阿しゅく仏・宝生仏・阿弥陀仏・不空成就仏が刻まれた貴重な塔。 貞治2年銘の阿弥陀如来磨崖仏らとともに市の文化財に指定されている。 |
静岡県伊豆の国市中條145−2 伊豆箱根鉄道駿豆線 伊豆長岡駅から徒歩12分 |
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