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寛喜の大飢饉
〜鎌倉時代の異常気象〜

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 1230年(寛喜2年)、天候不順による大凶作が全国を襲った。
 
 この年の夏は、「連日の豪雨」、「冬のような冷たい気候」だったと伝えられている。

 これが寛喜の大飢饉の始まりとなる。
 
 『吾妻鏡』は、6月9日(現在の7月27日)には、武蔵国金子郷で落雷があり、同時に雹(ヒョウ)が降ったとされ、美濃国蒔田荘では白雪が降ったとの報告があったと伝えており、7月16日には諸国に霜が降り、「ほとんど冬天のごとし」と記している。

 8月6日の晩には、洪水が起き、河辺の民居が流出し、多くの溺死者を出した。

 さらに8月8日には台風に襲われ、『吾妻鏡』には「草木葉枯れ、偏(ひとえ)に冬気の如し。稼穀みな損亡」と記されている。

 同じ年の冬について『明月記』は、麦が穂を出し、桜の花が咲き、コオロギが鳴いたと暖冬であったことを伝えている。



大 飢 饉

 1231年(寛喜3年)は、前年夏の冷夏による影響で飢餓に襲われた。

 3月には餓死者が多く発生し、三代執権北条泰時は、出挙米(領主からの貸付米)のある者に、施しをするよう通達を出している。

 この状況は8月頃まで続き、餓死者の死骸がところどころに放置されていたという。

 夏は晴天が続き、飢饉も収束するかに思えたが、炎暑と干ばつが収穫に影響を与え、麦の種も半分しか確保できないとう状況となった。

 飢饉の状態は、1239年頃まで続いたものと考えられ、「天下の人種三分を一失す」といわれた。





北条泰時の通達

 『吾妻鏡』には、

 「今年世上飢饉、百姓多くをもって餓死せんと欲す。よって武州(泰時)、伊豆駿河両国の間、出挙米を施し、その飢えを救うべきの由、倉廩あるの輩に仰せ聞かせらる」

 とある。

 他人に施しができるほど蓄えのある裕福な者もいたのであるが、貸し倒れになる虞があったことから、通達のとおりにはいかなかった。





人身売買の容認

 飢えた者が生きるために考えることは人身売買である。

 幕府はこれまで、人身売買を取り締まってきたが、寛喜の飢饉のときには、これを容認している。

 飢饉が終息したと考えられる1239年(延応元年)になって、再び人身売買を禁止した。





寛喜の大飢饉と御成敗式目

 北条泰時「御成敗式目」を制定したのは1232年(貞永元年)のことで、まさに全国的な大飢饉に襲われているときだった。

 そのため、「御成敗式目」は、「寛喜の大飢饉」の徳政の意味も踏まえた制定であったと考える説もある。





異常気象の原因

 地球の気候は、1100年頃の温暖をピークとして寒冷化を辿っていた。

 鎌倉時代はその寒冷化が急速に進んだ時代と考えられている。
 なお、寒冷化の底は、1400年から1500年頃とされている。

 したがって、鎌倉時代には、異常気象による飢饉が数回起こっている。

 1260年(文応元年)、日蓮が五代執権北条時頼に提出した『立正安国論』には、「天変・地夭・飢饉・疫癘遍く天下に満ち・・・・牛馬巷に斃れ、骸骨路に充てり。」と記されている。

 この時代にも「正嘉の飢饉」が発生していた。








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