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三代執権北条泰時は、「連署」や「評定衆」の設置、武家の法典である「御成敗式目」(貞永式目)を制定し、北条執権体制の基礎を固めた。 和賀江嶋の築港を許可し、巨福呂坂・朝夷奈切通を開いた人物としても知られる。 1242年(仁治3年)6月15日没。 常楽寺(粟船御堂)に葬られた。 法名は「常楽寺殿」。 この年は『吾妻鏡』が欠落しているため、死因についての詳細はわからないが・・・ 京都の公家の日記によると、赤痢に感染して高熱に苦しみ、平清盛の最期のようだったのだという。 常楽寺の本尊阿弥陀三尊像は、泰時が亡くなる3日前の造立で、死期を悟った泰時が、死の直前に造らせた可能性が高いと考えられている。 |
1221年(承久3年)5月、後鳥羽上皇が二代執権北条義時に対して挙兵(承久の乱)。 北条泰時は、幕府軍の総大将として出陣し、6月14日には宇治川の戦いで朝廷軍を破って入京。 その結果、7月13日、後鳥羽上皇は隠岐国へ配流され、1239年(延応元年)2月22日、配所地で崩御している。 義時が亡くなったのが6月13日、源頼朝の恩を説いて御家人たちに出陣を命じた北条政子が亡くなったのが7月11日、京都進撃を主張した大江広元が亡くなったのが6月10日。 そして、泰時が亡くなったのが6月15日。 いずれの死も、承久の乱で朝廷軍が敗れ、後鳥羽上皇が配流された6月・7月に集中していたことから、後鳥羽上皇の怨霊による祟りではないかという噂が流れたのだとか・・・ |
鶴岡八幡宮の今宮は、承久の乱で配流となった後鳥羽・順徳・土御門の三上皇を祀る社。 |
仏殿背後に三基並ぶ石塔の左が泰時の墓。 中央は龍淵和尚、右が大応国師(南浦紹明)の墓。 龍淵和尚は中興開基と伝えられ、大応国師は建長寺十三世を勤めた高僧。 |
建長寺の塔頭天源院は、大応国師(南浦紹明)の塔所。 南浦紹明(大応国師)→大徳寺開山の宗峰妙超(大燈国師)→妙心寺開山の関山慧玄へ続く法系は・・・ 「応灯関」と呼ばれ、現在の日本臨済宗の源流とも言えるのだという。 |
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常楽寺は、建長寺の根本といわれてる寺。 1月の「文殊祭」では、開山蘭渓道隆が宋より持参したという秘仏の文殊菩薩像が開帳される。 |
鎌倉市大船5−8−29 0467(46)5735 大船駅又は北鎌倉駅から徒歩20分 |
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