|
勝林院は、1013年(長和2年)に寂源によって開かれた天台宗の寺院。 正式名称は魚山大原寺勝林院(ぎょざんだいげんじしょうりんいん)。 のちに創建される来迎院とともに「天台声明」(しょうみょう)の道場として栄えた。 魚山大原寺は、勝林院と来迎院を中心とした寺院群の総称。 声明とは、音・ひびき・調和に関する学問で、天台声明は日本音楽の源なのだとか。 本尊は阿弥陀如来。 塔頭・宝泉院の血天井は、1600年(慶長5年)の伏見城の戦いで討死した兵の血で染まった廊下を使用したもの。 |
寂源の母は、藤原道長の才を見抜き、娘の倫子と結婚させた藤原穆子。 父は左大臣・源雅信。 寂源の俗名は、源時叙(みなもとのときのぶ)。 987年(天延元年)頃に出家し、比叡山に登って修行。 1013年(長和2年)、延暦寺と園城寺の対立を避けるように大原へ移ったのだという。 父雅信の土御門殿に出仕していた女流歌人の赤染衛門と交流があり、藤原道長はたびたび寂源を尋ねて講説を受けたのだという。 |
勝林院の南にある大原陵は、承久の乱で流され、配流地で崩御した後鳥羽上皇と順徳上皇の陵墓。 隠岐で崩御した後鳥羽上皇の遺骨は、西蓮(藤原能茂)が摂津国の水無瀬殿に移し、勝林院に納骨されたのだという(西林院という説も)。 |
1186年(文治2年)、勝林院に招かれた法然は、延暦寺・金剛峯寺・東大寺などの高僧らとともに念仏の教えについて問答を交わした(大原問答)。 その時、法然が「念仏を唱えれば極楽浄土へ往生できる」と説くと、本尊が光を放ち、法然の主張が正しいことを証明したのだという。 そのため、「証拠の阿弥陀」と呼ばれている。 |
熊谷直実は、武蔵国熊谷郷の武将。 源頼朝に仕え、一ノ谷の戦いなどで活躍したが・・・ 所領争いに敗れて出家。 法然に帰依し蓮生を名乗った。 大原問答の際、直実は法然が敗れたときには法敵を討とうと考え、袖に鉈を隠し持っていたが、法然に諭されて投げ捨てたのだとか・・・ ただ、直実が出家したのは1191年(建久2年)頃のこと。 |
京都市左京区大原勝林院町187 京都駅または国際会館駅から京都バスで大原下車 徒歩10分 |
大きい地図を見るには・・・右上のフルスクリーンをクリック。 |
|