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後鳥羽天皇は高倉天皇の第四皇子。 母は坊門信隆の娘・殖子 後白河天皇の孫。 安徳天皇の異母弟。 1183年(寿永2年)に即位(4歳)。 安徳天皇が平家とともに西国へ遷ったことから、神器なき即位だった。 1198年(建久9年)、土御門天皇に譲位し、上皇となって院政を開始。 以後、順徳・仲恭天皇と三代にわたる院政を敷いた。 1221年(承久3年)、北条義時追討のため挙兵したが、幕府軍に京を攻められ大敗(承久の乱)。 乱後、隠岐島に流され、1239年(延応元年)2月22日、京に還ることなく崩御(享年60)。 大原陵に埋葬されたのだという(十三重塔)。 順徳天皇は、後鳥羽天皇の第三皇子。 母は、藤原範季の娘・重子。 1210年(承元4年)、土御門天皇から譲位され即位。 1221年(承久3年)、仲恭天皇に譲位し上皇となる。 同年、父の後鳥羽上皇とともに承久の乱を起こしたとして佐渡へ流された。 1242年(仁治3年)9月12日、佐渡で崩御。 翌年、遺骨は後鳥羽院の大原陵に埋葬されたのだという(円丘)。 |
1239年(延応元年)2月22日、隠岐で崩御した後鳥羽上皇の遺骨の大部分は、現地に埋葬された。 翌年、後鳥羽上皇のお気に入りだった西蓮(藤原能茂)が遺骨を摂津国の水無瀬殿に移し、大原の勝林院に納骨(西蓮が持ち帰った遺骨は一部なのだろうか?)。 1241年(仁治2年)には、後鳥羽上皇の後宮修明門院(藤原重子)の計らいで水無瀬殿の一部を移して法華堂が建立され納骨された。 翌年には順徳上皇の遺骨が大原陵に埋葬されているが、法華堂に納骨されたのかは不明。 法華堂は1736年(享保21年)に焼失し、安永年間(1770−1780年)に再建されるが・・・ 文久年間(1861−1864)の修陵の際に後鳥羽天皇陵が現在の十三重塔に、明治に入ってから順徳天皇陵が現在の円丘に治定されたのだという。 法華堂の本尊は普賢菩薩。 |
大原陵の隣接地にある勝林院には、後鳥羽上皇の遺骨が納骨されていたのだという。 江戸時代の後鳥羽院像(肖像)が伝えられている。 |
水無瀬神宮は、後鳥羽上皇の水無瀬離宮(水無瀬殿)の跡地に建てられた神社。 後鳥羽上皇が火葬された隠岐の海士町には、上皇を祀る祠殿が建てられていたが、1873年(明治6年)、明治天皇の命により水無瀬神宮に合祀された。 現在は、第82代後鳥羽天皇御火葬塚として、宮内庁で管理されている。 |
承久の乱は、後鳥羽上皇が起こした打倒北条義時の兵乱。 後鳥羽上皇方の敗北により、後鳥羽上皇・順徳上皇・土御門上皇が流され、後鳥羽上皇に加担した公家・武士などの所領は没収。 朝廷の動きや西国御家人を監視するため六波羅探題が設置された。 |
京都府京都市左京区大原勝林院町 京都駅または国際会館駅から京都バスで大原下車 徒歩10分 |
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