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1221年(承久3年)5月14日、城南寺の流鏑馬揃えと称して兵を集めた後鳥羽上皇は、翌日、北条義時追討の院宣を発布(承久の乱)。 これに対し、幕府では、北条政子が「故右大将(源頼朝)の恩は山よりも高く、海よりも深い・・・」と説いて御家人の結束を固めた。 御家人らが参集した会議では、足柄峠と箱根山に関を設けて朝廷軍を迎え撃つという作戦も出されるが、大江広元が上洛すべきと主張。 さらに、政子は「すみやかに上洛せよ」と命じた。 そして・・・ 1221年(承久3年)5月22日早朝、北条泰時が18騎で出陣。 何故、たった18騎だったのか? それは、その前日に、こんなやりとりがあったから。 「上洛することを決定してから、日が経ち過ぎたので、いろんな異議が出てくる頃です。 皆の気が変わる前に、総大将の泰時さまが一人でも出陣すれば、関東の御家人は悉く、雲が龍に従うが如く従ってくるでしょう」 と大江広元が主張したから。 このことを政子が三善康信(善信)に問うと、 「まず、京へ向けて出陣するべき」 と答えたのだという。 それを受けた義時は、直ちに泰時に出陣するよう命じ、その夜、泰時は稲瀬川の藤沢清親の屋敷に泊まったのだとか。 泰時の出陣によって、関東の御家人は悉く京へ向けて出発。 その数は19万騎に達したのだという。 |
義時が泰時に語った戦の心構え (『増鏡』) 北条義時追討の官宣旨案 (神奈川県立歴史博物館(原本:個人蔵)) 北条義時追討の宣旨 (『承久記』(流布本)) 北条義時追討の院宣 (『承久記』(慈光寺本)) 北条義時追討の宣旨に対する返書 |
承久の乱は、後鳥羽上皇が起こした打倒北条義時の兵乱。 後鳥羽上皇方の敗北により、後鳥羽上皇・順徳上皇・土御門上皇が流され、後鳥羽上皇に加担した公家・武士などの所領は没収。 朝廷の動きや西国御家人を監視するため六波羅探題が設置された。 『吾妻鏡』よると、のちに北条政子は、承久の乱に勝利できたのは「半分以上は泰時の手柄によるもの」と語っている。 北条泰時と栂尾高山寺の明恵 |
よみがえる承久の乱 −後鳥羽上皇VS鎌倉北条氏− |
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