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『吾妻鏡』によると・・・ 1221年(承久3年)5月22日、19万騎の兵で上洛を開始した幕府軍。 北条泰時は東海道の大将軍として出陣。 『増鏡』によると・・・ 北条義時は子の泰時が出陣するにあたって、泣きながらこう語ったのだという。 「本来の志のとおりに清く死ぬべきである。 人に背を見せたなら、再び親の顔を見ることはないと思え。 今を限りと思え。 賎しい身分ではあるが、この義時は、主君に対してやましい心はまったくない。 だから、無駄な死に方はするな。 心を強く持ち、己に打ち勝つことができたなら、再びこの足柄山・箱根山を越えることができるだろう」 ただ・・・ 泰時は、出陣の翌日には鎌倉に戻ってきた。 その理由は、後鳥羽上皇自ら兵を率いてきた場合の対処方法を問うため。 義時は 「後鳥羽上皇に弓を引くなどあってはならないこと。 そのような場面となったら、兜を脱ぎ、弓の弦を切って、降伏するように。 そうでなく、後鳥羽上皇は都におられて、ただ軍兵だけをお遣わしなさったのであれば、命を捨てて千人が一人になるまで戦うように」 と答えたのだとか。 |
北条泰時の出陣 北条義時追討の官宣旨案 (神奈川県立歴史博物館(原本:個人蔵)) 北条義時追討の宣旨 (『承久記』(流布本)) 北条義時追討の院宣 (『承久記』(慈光寺本)) 北条義時追討の宣旨に対する返書 |
承久の乱は、後鳥羽上皇が起こした打倒北条義時の兵乱。 後鳥羽上皇方の敗北により、後鳥羽上皇・順徳上皇・土御門上皇が流され、後鳥羽上皇に加担した公家・武士などの所領は没収。 朝廷の動きや西国御家人を監視するため六波羅探題が設置された。 『吾妻鏡』よると、のちに北条政子は、承久の乱に勝利できたのは「半分以上は泰時の手柄によるもの」と語っている。 北条泰時と栂尾高山寺の明恵 |
よみがえる承久の乱 −後鳥羽上皇VS鎌倉北条氏− |
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