鎌倉手帳(寺社散策)

鎌倉殿の13人 二代執権北条義時
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義時が泰時に語った
戦の心構え

〜承久の乱〜

編集:yoritomo-japan.com








 『吾妻鏡』によると・・・

 1221年(承久3年)5月22日、19万騎の兵で上洛を開始した幕府軍。

 北条泰時は東海道の大将軍として出陣。


 『増鏡』によると・・・

 北条義時は子の泰時が出陣するにあたって、泣きながらこう語ったのだという。

 「本来の志のとおりに清く死ぬべきである。

 人に背を見せたなら、再び親の顔を見ることはないと思え。

 今を限りと思え。

 賎しい身分ではあるが、この義時は、主君に対してやましい心はまったくない。

 だから、無駄な死に方はするな。

 心を強く持ち、己に打ち勝つことができたなら、再びこの足柄山・箱根山を越えることができるだろう」


 ただ・・・

 泰時は、出陣の翌日には鎌倉に戻ってきた。

 その理由は、後鳥羽上皇自ら兵を率いてきた場合の対処方法を問うため。

 義時

 「後鳥羽上皇に弓を引くなどあってはならないこと。

 そのような場面となったら、兜を脱ぎ、弓の弦を切って、降伏するように。

 そうでなく、後鳥羽上皇は都におられて、ただ軍兵だけをお遣わしなさったのであれば、命を捨てて千人が一人になるまで戦うように」

 と答えたのだとか。



リンクボタン北条泰時の出陣


リンクボタン北条義時追討の官宣旨案
(神奈川県立歴史博物館(原本:個人蔵))

リンクボタン北条義時追討の宣旨
(『承久記』(流布本))

リンクボタン北条義時追討の院宣
(『承久記』(慈光寺本))

リンクボタン北条義時追討の宣旨に対する返書


承久の乱

北条政子の言葉

宇治川の戦い〜承久の乱〜


 承久の乱は、後鳥羽上皇が起こした打倒北条義時の兵乱。

 後鳥羽上皇方の敗北により、後鳥羽上皇・順徳上皇・土御門上皇が流され、後鳥羽上皇に加担した公家・武士などの所領は没収。

 朝廷の動きや西国御家人を監視するため六波羅探題が設置された。

 『吾妻鏡』よると、のちに北条政子は、承久の乱に勝利できたのは「半分以上は泰時の手柄によるもの」と語っている。

 リンクボタン北条泰時と栂尾高山寺の明恵


三代執権北条泰時





京都文化博物館特別展

リンクボタンよみがえる承久の乱
−後鳥羽上皇VS鎌倉北条氏−

2021/4/6(火)〜5/23(日)

よみがえる承久の乱







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