鎌倉手帳(寺社散策)

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畠山重忠の乱
畠山氏の滅亡

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畠山重忠像
リンクボタン畠山重忠像
(青梅市:武蔵御嶽神社)


 畠山重忠は武蔵国の有力武将。

 男衾郡畠山(現在の深谷市)で誕生し、のちに男衾郡菅谷(現在の比企郡嵐山町)に移って本拠とした。

 1180年(治承4年)に源頼朝挙兵したときは、平家方の大庭景親に従っていたが、頼朝が安房に渡り、鎌倉を目指すとこれに従った。

 源平合戦でも活躍し、鎌倉武士の鑑と呼ばれたが・・・

 頼朝の死後、北条時政の謀略によって一族もろとも滅ぼされた。



畠山重忠像
リンクボタン畠山重忠公史跡公園
(深谷市)

 重忠が生まれた畠山館跡は、畠山重忠公史跡公園として整備されている。

 館跡には重忠主従の墓が建てられている。



菅谷館跡
リンクボタン菅谷館跡
(嵐山町)

 重忠は、遅くとも1187年(文治3年)までには畠山の地から交通の要衝だった菅谷に移った。

 菅谷館は、重忠の居館だったと考えられている。









〜北条時政の謀略〜

 1200年(正治2年)梶原景時を追放、1203年(建仁3年)比企能員を暗殺するなど、源頼朝以来の有力御家人を滅ぼしてきた北条時政

 二代将軍頼家も時政をはじめとする北条氏によって暗殺された。

 その謀略は、畠山重忠にも及んだ。

 ただ、畠山重忠討伐は時政自らの失脚にもつながっていくことに。



〜坊門姫を迎えるための上洛〜
(2つの事件発生)

 『吾妻鏡』によると・・・

 1204年(元久元年)10月14日、三代将軍源実朝の妻となる坊門信清の息女坊門姫(西八条禅院)を迎えるため、

 北条政範・結城朝光・千葉常秀・畠山重保(畠山重忠の嫡男)

 らが上洛。

 11月4日、京都守護の平賀朝雅邸で催された酒宴の席で、朝雅と重保が口論となるが、集まっていた者がなだめたことで、その場は収まっている。

 その翌日に、北条政範が死去。

 この2つの事件が畠山氏の滅亡へと繋がっていくこととなる。



=平賀氏=

 平賀氏は、新羅三郎義光の子義信を祖とする河内源氏。

 義信は、平治の乱源義朝に従い、多くの御家人を遠ざけて行われた勝長寿院での義朝の埋葬にあたっては、源頼朝の命により源氏一門として参列している。

 義信は、頼朝の死後も源氏の重鎮として存在していた。

 平賀朝雅は、その義信の次男。

 母は頼朝の乳母・比企尼の三女。

 北条時政の娘(後妻・牧の方の子)を正室とし、1203年(建仁3年)に京都守護に任命され、1204年(元久元年)には伊賀・伊勢で起こった平家残党の反乱(三日平氏の乱)を鎮めて伊賀・伊勢の守護職にも任じられていた。



=北条政範=

 北条政範は、北条時政牧の方の子。

 『吾妻鏡』によると、亡くなったのは16歳のとき、官位は従五位下。

 一説には、時政の嫡子は義時ではなく政範だったのではないかとも言われている。



=畠山重保=

 平賀朝雅と口論した重保は、北条時政の前妻が産んだ娘というのが通説。

 ただ、足立遠元の娘という説もある。

 『吾妻鏡』からは口論の原因がわからないが、北条時政平賀朝雅と畠山父子の間には武蔵国の支配をめぐる対立があったものと考えられる。





〜平賀朝雅と牧の方の讒訴〜


 翌1205年(元久2年)、畠山父子を何とかしたい平賀朝雅と実子を失くして悲嘆にくれる牧の方、そして北条時政が動き出す。


 『吾妻鏡』によると・・・

 4月、鎌倉中が騒がしくなり、近国の者が武具を整えているとの噂が流れる。

 4月11日には、北条時政が娘婿の稲毛重成を鎌倉へ呼んでいる。

 5月に入ると、騒がしかった鎌倉も、多くの御家人が帰国したことで静さを取り戻したようだったが・・・

 6月20日、稲毛重成に呼ばれた畠山重保が鎌倉に到着。

 翌21日、平賀朝雅は、牧の方を通じて北条時政に畠山重忠父子の謀反を訴え、それを受けた時政は、子の義時時房に畠山討伐を諮った。

 義時時房は、

 「畠山重忠は治承4年の源頼朝様の挙兵以来、忠義を尽くしています。

 頼朝様もその志を鑑みて、息子らを守護するよう丁寧に頼んでいます。

 とりわけ、頼家様の味方だったにも関わらず、比企能員との戦い(比企能員の変)では我々に味方して忠義を尽くしてくれたのは、親子の義理を重んじたからです(重忠の正室は時政の娘)。

 それなのに何を理由に謀反を企てるのでしょうか・・・

 もし、重忠の度々の勲功を無視して征伐すれば後悔することになります。

 事の真偽を確認してからでも遅くはありません」

 と主張。

 時政は何も言えずに席を立ったのだが・・・

 その後、牧の方の使いで義時館にやってきた牧時親(大岡時親)が、

 「畠山重忠の謀反はすでに明白。

 将軍のため、世のために時政殿が伝えたにもかかわず、貴殿は重忠に代わって悪だくみをごまかそうとしている。

 私が継母だから讒言者にしようというのか・・・」

 という伝言を伝えたことで義時も考え直したのだという。









〜畠山重保の最期〜


 6月22日早朝、謀反人が由比ヶ浜に集結しているという虚偽の報告を受けた重保は、郎党3名を連れて由比ヶ浜に駆けつけるが・・・

 北条時政の命を受けた三浦義村によって討たれた。



畠山重保の墓
リンクボタン畠山重保墓

 畠山重保の屋敷は鶴岡八幡宮一の鳥居付近にあったのだという。



〜畠山重忠の最期〜


 その頃、畠山重忠は、稲毛重成の虚偽報告を受けて6月19日に菅谷館を出発し、鎌倉へと向う途中だった。

 重忠が鎌倉へ向かっているとの噂が流れると、重忠誅殺の命が下り、北条義時らが鎌倉を出発。

 重忠は、陣を布いていた鶴ヶ峰の麓で、嫡男の重保が殺され、討伐軍が攻めてきている事を知ったのだという。

 正午頃、武蔵国二俣川で討伐軍と畠山軍が激突。

 激戦が繰り広げられたが、重忠は横山党愛甲三郎季隆の矢を受けて最期を遂げた。



畠山重忠終焉の地
リンクボタン畠山重忠終焉の地
(横浜市旭区)

 畠山重忠は、僅か150騎を従えていたのみで、家臣からは引き返すよう進言されたが、「潔く戦うことが武士の本懐」として討伐軍を迎え撃つことにしたのだという。


 リンクボタン盟友安達景盛との戦い

 リンクボタン潔く戦うことが武士の本懐



畠山重忠公首塚
リンクボタン畠山重忠公首塚
(横浜市旭区)

 畠山重忠を射た弓の名手愛甲三郎季隆は、1213年(建暦3年)に起こった和田合戦和田義盛に味方し、一族ともに滅んだ。



駕籠塚
リンクボタン菊の前の墓
(横浜市旭区・駕籠塚)

 菊の前は、畠山重忠の内室(足立遠元の娘)。

 重忠とともに二俣川で討死した重秀の母。

 戦場に駆けつけた菊の前は、重忠の戦死を知ると自害したのだと伝えられている。 



鎌倉観光畠山重忠の一生を詠った重忠節



花は桜木、人は武士





〜畠山謀反はなかった!〜


 畠山重忠軍を破った北条義時は、重忠軍がたった150騎余りだったことで、畠山謀反が父時政の虚言であったことを確認。

 6月23日、鎌倉に帰参した義時は、時政に戦いの様子を尋ねられると、

 「重忠の弟や親類は他所へ赴いていた。

 従っていたのは僅かに百騎ほど。

 重忠が謀反を企てたというのは虚言である。

 讒訴によって征伐されたのでは不便極まりない。

 首実検で重忠を見たとき、涙を止めることができなかった」

 と話した。

 時政は何も言えなかったのだという。



〜武蔵国の支配をめぐる対立〜


 『吾妻鏡』では、平賀朝雅と牧の方が北条時政に畠山父子の謀反を訴えたことにより、畠山討伐が行われたとされているが・・・

 畠山重忠は武蔵国の武士団の統率権・動員権を持つ惣検校職に補任されている最有力御家人、平賀朝雅は武蔵国の国司。

 そもそも畠山重忠北条時政との間には、武蔵国の支配をめぐる対立があった。

 畠山重忠滅亡後、足立遠元が守ってきた武蔵国足立郡司職も北条氏に移ったものと考えられている。


 リンクボタン武蔵国留守所惣検校職と畠山重忠



秩父氏館跡
リンクボタン秩父氏館跡
(秩父市)

 武蔵国留守所惣検校職は、重忠の曾祖父重綱が就任して以後、秩父一族が相伝していた。



〜稲毛重成一族の誅殺〜


 6月23日夕刻、三浦義村が経師谷(材木座辺り)で榛谷重朝(稲毛重成の弟)と嫡男・重季、次男・秀重を誅殺。

 稲毛重成は大河戸行元に討たれ、子の小澤重政は宇佐美祐村に誅殺された。

 畠山重忠討死の原因は・・・

 重忠に恨みがある平賀朝雅が重忠一族の謀反を牧の方に告げ口し、北条時政重成と示し合わせ、

 「鎌倉に騒動が起こった」

 と重忠へ報告したこと。

 重忠は、それを聞いて鎌倉へ向かっていた。

 稲毛重成畠山重忠は従兄弟。

 重成は親族のよしみを捨てて重忠を黙したのだと『吾妻鏡』は伝えている。



稲毛重成の墓
リンクボタン稲毛重成の墓
(川崎市)

 稲毛重成の妻は北条時政の娘。

 源頼朝は、重成が亡き妻のために催した橋供養の際に落馬して命を落としている。





〜北条時政追放〜


 閏7月19日、時政牧の方による平賀朝雅を将軍に据えようとする企てが発覚し、時政らは伊豆に追放され、閏7月26日、京都にいた平賀朝雅は追討軍によって討たれた。


 リンクボタン牧の方の陰謀


 畠山討伐からの一連の事件によって、北条義時が時政にかわって政所別当となり、執権の座に就いている。



北条時政の墓
リンクボタン北条時政墓
(伊豆の国市)









〜鎌倉武士の鑑〜

国は武蔵の 畠山
武者と生まれて 描く虹
剛勇かおる 重忠に
いざ鎌倉の ときいたる

平家追い討つ 一の谷
愛馬三日月 背に負えば
そのやさしさに 馬も泣く
ひよどり越えの 逆落し

雪の吉野の 生き別れ
恋し義経 いまいづこ
静の舞の 哀れさに
なみだで打つや 銅拍子

頼み難きは 世の常か
誠一途が 謀反とは
うらみも深く 二俣
もののふの意地 花と散る

仰ぐ秩父に 星移り
菅谷館は 苔むせど
坂東武者の かがみとぞ
おもかげ照らす 峯の月



一ノ谷古戦場
リンクボタン一ノ谷古戦場
静の舞
リンクボタン静の舞


菅谷館跡
リンクボタン畠山重忠像
(菅谷館跡)
畠山重忠主従の五輪塔
リンクボタン畠山重忠墓
(畠山館跡)



花は桜木、人は武士





〜重忠創建と伝わる東光禅寺〜

東光禅寺
リンクボタン東光禅寺
(横浜市金沢区)

 東光禅寺は、重忠が鎌倉の薬師ヶ谷(現在の鎌倉宮付近)に建てた医王山東光寺を前身としているという伝承がある。

 境内には重忠の供養塔が置かれ、近くの六郎ヶ谷には嫡男重保の五輪塔も建てられている。





〜重忠の子重慶〜

慈光寺観音堂
リンクボタン慈光寺
(ときがわ町)

 慈光寺は、源頼朝畠山重忠が信仰した観音霊場。

 乱後、重忠の末子・重慶は、慈光寺に登って二十七世の別当になったのだという。

 しかし、1213年(建暦3年)9月、日光山(輪王寺二荒山神社)の麓で謀反を企てているとして訴えられ、長沼宗政に討たれている(『吾妻鏡』)。


リンクボタン謀反を企てて誅殺された畠山重忠の子・重慶





 畠山重忠の乱によって、桓武平氏の名門畠山氏は滅亡するが、重忠の妻(北条時政の娘)は、のちに足利義兼の子義純の妻となった。

 義純が畠山の名跡と旧領を継いでいる。

 これによって畠山氏は、源氏の家系となる。

 室町時代に足利将軍家の下で活躍する畠山氏はこの家系。



畠山重忠

初代執権北条時政


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