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『吾妻鏡』に伝えられている畠山重忠の館跡と考えられている。 重忠は、誕生地とされる武蔵国男衾郡畠山に畠山館を構えていたが、のちに鎌倉街道の要衝にあたる比企郡菅谷の地に移った。 1205年(元久2年)に重忠が武蔵国二俣川で滅んだ後は、畠山の名跡を継いだ足利義純の子孫に伝えられたというが、現存する遺構は戦国時代のもので、重忠の時代のものとされる遺構は発見されていないため不明なところが多い。 1973年(昭和48年)国の史跡に指定されている。 都幾川の対岸には、1152年(仁平2年)に源義賢(よしかた)が築いたとされる大蔵館があった。 源頼朝に滅ぼされた義賢の次男木曽義仲は大蔵館で誕生したのだと伝わる(義仲産湯の清水)。 |
二ノ郭の土塁上に建てられた畠山重忠の像は、1929年(昭和4年)に造られた竹筋コンクリート製。 |
埼玉県立嵐山史跡の博物館は、菅谷館跡に関する資料などを展示する博物館。 |
深谷市の畠山重忠公史跡公園は、重忠が誕生した畠山館跡を整備した公園。 |
1205年(元久2年)6月22日、畠山重忠が最期を遂げた地。![]() |
鎌倉歴史文化交流館に展示されている赤糸威大鎧(模造)は、「鎌倉武士の鑑」と呼ばれた畠山重忠が武蔵御嶽神社に奉納したもの。 |
埼玉県比企郡嵐山町大字菅谷 東武東上本線武蔵嵐山駅から徒歩15分 |
鶴岡八幡宮の流鏑馬馬場の東の鳥居を抜けたところにある石碑。 源頼朝の信任を得た畠山重忠の邸は、御所の南という重要な地に置かれた。 |
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