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この像は、木曽町の「義仲館」のシンボル。 義仲館は、木曽町にゆかりの武将木曽義仲、義仲の養父中原兼遠、木曽で義仲とともに成長した兼遠の子で樋口兼光・今井兼平・巴御前などの存在を後世に伝えるために開館した資料館。 |
長野県木曽郡木曽町日義290−1 JR中央本線宮ノ越駅下車徒歩5分 【開館時間】 9:00〜17:00 【休館】 月曜日 (祝日の場合は、その直後の祝日でない日) 年末年始(12/29-1/3) 【入館料】 大人300円(中学生以下無料) |
木曽義仲は、源義賢の次男。 父の義賢は、武蔵国の秩父重隆と結んでその娘を妻(小枝御前か?)とし、武蔵国比企郡大蔵に館を構えていましたが、1155年(久寿2年)8月16日、源義朝(義賢の異母兄・頼朝の父)の子義平に攻められ最期を遂げました。 まだ幼かった義仲は、武蔵国幡羅郡長井庄の斎藤実盛に命を救われ、信濃国の木曽谷へ逃がれて中原兼遠のもとで育てられたのだと伝えられています。 |
『平家物語』によると、木曽で育った義仲は、兼遠に連れられて京都の石清水八幡宮を参拝し、元服したのだといいます。 |
石清水八幡宮で元服した木曽義仲〜平家物語〜 |
1180年(治承4年)、以仁王の平家打倒の令旨を受け取った義仲は木曽で挙兵。 1183年(寿永2年)には、信濃・上野・越後・越前をその勢力下に入れました。 一時、支配権をめぐって鎌倉の源頼朝と対立しますが、嫡子の義高を人質として差し出すことで和睦。 そして、1183年(寿永2年)5月、十万ともいわれた平家の追討軍を倶利伽羅峠の戦いで破り、平家一門を都落ちさせて、7月28日に入京。 『平家物語』によると、後白河法皇から「朝日の将軍」という称号を賜りますが・・・ 次第に後白河法皇と対立。 後白河法皇の法住寺殿の襲撃や、頼朝追討の院宣を強要した義仲に対し、頼朝は弟の範頼と義経に義仲追討を命じます。 1184年(寿永3年)1月20日、範頼が瀬田から、義経が宇治から京を攻撃したことで義仲は惨敗。 わずかな兵で京を脱出しますが、範頼軍に攻められ、近江国粟津で討死しました。 |
義仲寺は、粟津の戦いで討たれた義仲が葬られた場所と伝えられています。 |
今井兼平は、粟津の戦いで義仲とともに壮絶な最期を遂げました。 |
粟津の戦い:木曽義仲と今井兼高の最期 |
木曽義仲挙兵の地とされる木曽町の宮ノ越地区や原野地区は旧日義村(ひよしむら)。 朝日将軍(旭将軍)と呼ばれた義仲。 「日」は朝日将軍から、「義」は義仲の一字をとった地名なのだそうです。 |
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