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正法寺は、718年(養老2年)に沙門逸海が岩殿山の岩窟に千手観音像を安置し、傍らに正法庵と号した草庵を結んだことに始まるのだとされる。 真言宗智山派の寺院。 坂東三十三箇所の十番札所で、岩殿観音の名で知られている。 鎌倉時代には、源頼朝の命により比企能員が復興。 千手観音は北条政子の守り本尊だったとも伝えられ、頼朝亡き後に政子が堂宇を再建したのだと伝えられている。 観音巡礼が盛んになった室町時代には門前も大いに賑わい、戦国時代には本坊の他に六十六の僧坊を有していたのだという。 1561年(永禄4年)、越後の上杉謙信と小田原の北条氏康との戦いで焼失してしまうが、1574年(天正2年)に栄俊が再興し、1591年(天正19年)には、徳川家康から寺領二十五石の朱印地を与えられた。 千手観音を安置する観音堂は、創建以来三度の火災に見舞われ、現在の建物は1872年(明治12年)に飯能市の長念寺から移築されたもの。 |
現在の千手観音は室町時代のものと伝えられている。 |
観音堂前の大銀杏は、推定樹齢は700年。 安産・子育守護の対象として信仰されてきた。 |
茅葺の鐘楼は、1702年(元禄15年)に寄進されたもので、東松山市で最も古い建物といわれている。 |
1322年(元亨2年)鋳造。 外面に無数の傷は、1590年(天正18年)の豊臣秀吉による小田原征伐(松山城合戦)の際に、山中を引き回してつき鳴らした時の傷だと伝えられる。 |
仁王門から延びる表参道では約50戸が門前町を形成していた。 昔の商店のままの姿を残すのは僅かだが、各家には屋号を示す手作りの看板が設置されている。 |
岩殿観音を復興させた比企能員は、武蔵国比企郡の豪族で大谷にある宗悟寺周辺が館跡と考えられている。 能員は源頼朝の乳母比企尼の甥。 岩殿観音が坂東札所に選ばれたのは、観音信者だった頼朝が能員を重用していたからともいわれる。 参考:坂東札所(神奈川県) |
観音信者だった源頼朝〜守り本尊は清水寺から授かった正(聖)観音像〜 |
比企時員は、比企能員の子。 二代将軍源頼家の近習として仕え、頼家が十三人の合議制に反発して指名した目通りが許される五人のうちの一人となった。 1203年(建仁3年)の比企能員の変で討死するが、妻は正法寺(岩殿観音)に落ち延び、男児を出産したのだと伝えられている。 翌年、妻は一族の冥福を祈るため西国巡礼の旅に出たが、男児は寺で育てられて員茂を名乗り、のちに北面の武士となり、1221年(承久3年)の承久の乱では、流罪となった順徳上皇に従って佐渡に渡ったのだという。 その後、子の員長とともに比企郡中山(現在の川島町)に移り住んだのだと伝えられている。 |
埼玉県東松山市岩殿1229 東武東上線「高坂駅」西口から「鳩山ニュータウン」行きバス(2番乗り場)で「大東文化大学」下車、徒歩3分。 |
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