鎌倉手帳(寺社散策)

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源頼家の墓
〜伊豆:修善寺〜

編集:yoritomo-japan.com








源頼家の墓
征夷大将軍左源頼家尊霊


 1203年(建仁3年)、北条氏によって二代将軍の座を奪われた源頼家は、修禅寺に幽閉され、翌元久元年7月18日、暗殺された。


源頼家の墓





〜源頼家〜

 源頼家は、鎌倉に武家の都を築いた源頼朝の嫡男。

 母は北条政子

 1199年(正治元年)、父頼朝の死をうけて18歳で家督を継ぎ、1202年(建仁2年)には征夷大将軍に任ぜられた。

 『吾妻鏡』によれば・・・

 1203年(建仁3年)8月27日、病の床に臥していた頼家の病状が悪化する中、日本全体の惣守護職と関東二十八ヶ国の地頭職を頼家の長子一幡に、関西三十八ヶ国の地頭職を弟の千幡(のちの源実朝)に譲ることが発表された。

 この決定に頼家の乳母夫比企能員が反発。

 9月2日、側室若狭局(比企能員の娘)を通じて「北条時政を追討すべきだ」と伝えられた頼家比企能員を呼んで、北条氏追討の許可を与えたのだという。

 しかし、その密議は、障子を隔てて聞いていた北条政子に知れてしまった。

 同日、比企能員は北条時政邸で天野遠景仁田忠常に暗殺され、比企邸も北条義時らに襲撃されて比企一族は滅亡させられた(比企能員の変)。

 頼家の嫡子一幡も焼死している(参考:一幡の袖塚)。

 この時、危篤状態だったという頼家は、9月5日、奇跡的に快復して事件を知ると、和田義盛仁田忠常に時政討伐を命じるが失敗に終わり、病気と政治不安を理由に出家させられた。

 9月29日には、伊豆国の修禅寺に幽閉され、翌1204年(元久元年)7月19日には、その死が鎌倉にもたらされている。

 7月18日、入浴中を襲われ最期を遂げたのだと伝えられている(享年23)。



〜頼家に出家を命じた政子〜

 『吾妻鏡』によると、頼家は母政子の配慮で出家させられたのだという。

 政子の配慮とは・・・

 このままでは謀反人に担ぎ出される可能性もあり、そうなれば、北条氏によって暗殺されてしまう可能性もあるため、頼家の命を救うには出家しかなかったのかもしれない。





〜頼家の五輪塔〜

源頼家の墓


 「征夷大将軍左源頼家尊霊」と刻まれた石柱は、1704年(元禄16年)に時の住職の筏山智船(ばっさんちせん)が建てた供養碑。

 碑の裏にある五輪塔が墓。

 三基あるが・・・
 
 頼家・側室の若狭局・嫡男の一幡のものという説も・・・

 「征夷大将軍左源頼家尊霊」の「左」は「左金吾」のこと。

 左金吾は左衛門督(さえもんのかみ)の唐名で、頼家は左衛門督に任じられたため「左金吾」と呼ばれていた。





鎌倉殿の13人〜宿老13人の合議制〜

 頼朝の家督を継いだ頼家だったが、間もなく、訴訟親裁を停止させられた。


梶原景時の変

 梶原景時の変は、頼家が修禅寺に流される3年前に起きた事件。

 慈円の『愚管抄』には、「頼家は、乳母夫を務め、一の郎等であった梶原景時を見殺しにしなければ、このようなことにはならなかった」と記されている。


比企能員の暗殺・比企氏滅亡



リンクボタン乳母制度が生んだ権力闘争〜頼朝・頼家・実朝の乳母〜

リンクボタン源頼家の家督相続の沙汰

リンクボタン『吾妻鏡』が伝える比企能員暗殺

リンクボタン『吾妻鏡』が伝える比企一族の最期

リンクボタン仁田忠常の誅殺

リンクボタン北条政子の配慮で出家した源頼家

リンクボタン兄源頼家の失脚で将軍となった源実朝

リンクボタン慈円の愚管抄が伝える比企能員の変

リンクボタン鶴岡八幡宮の巫女の予言から始まった!〜吾妻鏡の物語と比企能員の変〜





十三士の墓
リンクボタン十三士の墓



 源頼家の墓の前には、頼家の家臣十三士の墓が置かれている。

 源頼家墓背後の鹿山には、頼家の叔父にあたる「源義経の像」がある。


筥湯
リンクボタン筥湯

 筥湯は、かつて修善寺温泉に七つあった外湯の一つで、2000年(平成12年)に再建された。

 源頼家は、この筥湯に入浴中に襲撃されたという説が・・・


横瀬八幡神社
リンクボタン横瀬八幡神社

 修善寺温泉の入口に鎮座する横瀬八幡神社は、相殿に源頼家を祀る。









〜病気快復を願っていた頼家〜

般若心経(源頼家筆)
リンクボタン源頼家の般若心経
(三嶋大社)

 重病となってしまった頼家は、父頼朝が崇敬していた三嶋大社に病気治癒祈願のため般若心経を奉納している。





〜冥福を祈った北条政子〜

指月殿
リンクボタン指月殿
浅草寺宝蔵門
リンクボタン浅草寺宝蔵門


 頼家墓の横にある指月殿は、頼家の冥福を祈るために、母の北条政子が建てたもの。

 政子は「宋版放光般若経」を納めて頼家の菩提を弔ったのだと伝えられ、修禅寺に残されている巻ニ十三の巻末欄外には「為征夷大将軍左金吾督源頼家菩提 尼置之」の墨書があり、政子の直筆といわれている。

 浅草の浅草寺宝蔵門には、政子が頼家の追善供養のために中国から取り寄せて鶴岡八幡宮に奉納したという「元版一切経」が収蔵されている。





〜浅間菩薩の祟りだったのか?〜

 1203年(建仁3年)6月、浅間菩薩が住んでいるという富士の人穴仁田忠常に探索させた頼家

 その翌月、頼家は病に倒れた。

 9月には、北条時政北条政子によって出家させられ、伊豆修禅寺に幽閉された(参考:比企の乱)。

 そして、翌年7月18日、修禅寺で暗殺された。

 人穴探索をした仁田忠常は、比企の乱加藤景廉に謀殺されている。 


人穴富士講遺跡
リンクボタン人穴富士講遺跡
(世界文化遺産)

 富士の人穴遺跡には、源頼家が仁田忠常に探索させたという伝説が残されている。


リンクボタン富士の人穴探検〜源頼家と仁田忠常〜

リンクボタン浅間大菩薩に祟られた?〜源頼家・仁田忠常〜


頼家の面
リンクボタン源頼家と死相の面

 修禅寺に伝わる頼家の仮面。

 岡本綺堂は、この面を拝観して『修禅寺物語』を描いたのだという。





〜東京渋谷区の八幡宮〜

代々木八幡宮
リンクボタン代々木八幡宮

 代々木八幡は、頼家の家臣が、頼家の暗殺後に鶴岡八幡宮の神霊のお告げを受けて創建したという社。





〜伊豆の国市の二つの寺〜

伊豆の国市信光寺
リンクボタン信光寺
伊豆の国市光照寺
リンクボタン光照寺

 信光寺は、頼家が暗殺されたことを知って出家した武田信光が建てたという寺。

 願成就院の支院だった光照寺には、信光が鎌倉へは運ぼうとしていたという頼家の「病相の面」が残されている。


源頼家の病相の面
リンクボタン病相の面
(伊豆の国市:光照寺)








源頼家

歴史めぐり源頼朝




修禅寺
リンクボタン修禅寺

 「修善寺」という地名は、弘法大師によって開創された修禅寺をその由来としている。


静岡県伊豆市修善寺964

伊豆箱根鉄道駿豆線「修善寺駅」より
修善寺温泉行バス。
「修善寺温泉」下車



修禅寺歴史めぐりMAP
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