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浅草寺は、628年(推古天皇36年)、隅田川で漁をしていた檜前浜成・竹成(ひのくまのはまなり・たけなり)兄弟の網にかかった聖観音像を、郷司の土師中知(はじのなかとも)が自邸を寺にして供養したのがはじまり。 645年(大化元年)、勝海によって観音堂が建立され、夢告により本尊は秘仏とされた。 857年(天安元年)には、比叡山延暦寺の円仁(慈覚)が中興し、秘仏本尊のお前立を彫っている。 942年(天慶5年)、平公雅が平将門の乱で荒廃していた伽藍を再建し、近郡に比類なき霊場となった。 源頼朝も信仰し、以後代々将軍の帰依を受けて発展した浅草寺は、江戸時代に入ると徳川家康によって幕府の祈願所に定められている。 宗旨は聖観音宗。 東京都内最古の寺で、唯一の坂東三十三箇所観音霊場(第十三番)。 「浅草の観音様」として親しまれている。 |
※ | 円仁は第三世天台座主になった高僧で、開山したり再興した寺院は、比叡山延暦寺の横川、中尊寺、毛越寺、江島神社中津宮など500以上になる。 |
※ | 鎌倉の杉本寺の本尊も円仁作と伝えらている。 |
雷門 (風雷神門) |
宝蔵門 |
宝蔵門には、北条政子が長男頼家の追善供養のために中国から取り寄せて鶴岡八幡宮に奉納したという「元版一切経」が収められている。 |
影向堂 |
五重塔 |
薬師堂 |
淡島堂 |
浅草神社 |
二天門 |
戦前まで二天門には、鶴岡八幡宮の経蔵にあった二天が安置されていたのだという。 |
銭塚地蔵尊 |
弁天堂 |
時の鐘 |
源頼朝のイチョウ |
浅草寺の時の鐘は、寛永寺の時の鐘とともに松尾芭蕉の句に詠まれた鐘。 そして、江戸時代の川柳には増上寺の大鐘とともに詠われている鐘。 |
平公雅(たいらのきんまさ)は、上総介として下向して武家平氏の祖となった高望王の孫(高望王流桓武平氏)。 942年(天慶5年)、出世を願って浅草寺に参籠した公雅は、武蔵国守となれたことの礼として、平将門の乱で荒廃していた伽藍を再建。 本堂・宝塔・鐘楼・総門・楼門・経蔵・法華常行堂・五重塔が建立され、浅草寺は比類なき霊場となったのだという。 |
1079年(承暦3年)、浅草寺は原因不明の火災で炎上。 この折、御本尊は本堂の西方にあった榎の梢に自ら避難したのだという。 それから約70年後、源頼朝の父義朝は、御本尊が避難したという大榎で造った観音像を奉納。 毎年1月に執り行われる「温座秘法陀羅尼会」の本尊とされている「榎観音」がその像と伝えられている。 |
1180年(治承4年)8月17日、伊豆国で挙兵した源頼朝。 8月24日、石橋山の戦いで大敗してしまうが、8月29日には安房国へと渡り、軍勢を整え、10月2日に三万騎を率いて太井川(現在の江戸川)・隅田川を渡って武蔵国に入った。 その折、浅草寺を参拝し、平家討滅祈願を行ったのだと伝えられている。 |
浅草寺で平家討滅祈願をした源頼朝は、武蔵国を進軍し、10月6日に相模国に入り、翌7日に鎌倉入りしている。 |
境内にある九代目團十郎の暫像は、団十郎が演じたの鎌倉権五郎景政の銅像。 『暫』(しばらく)は、歌舞伎の演目で歌舞伎十八番の一つ。 |
雷門から宝蔵門までの「仲見世」は、1685年(貞享2年)、近隣住民が境内の清掃をする代わりに認められた商店街。 関東大震災によって被災したが、1925年(大正14年)に鉄筋コンクリート造で再建された。 |
浅草寺の本坊。 客殿に阿弥陀三尊、その左右に徳川歴代将軍11名の位牌と浅草寺各世代住職の位牌を安置する。 庭園は小堀遠州作。 |
渋沢栄一は、徳川家ゆかりの寛永寺・浅草寺でそれぞれ檀家総代・信徒総代を務めた。 |
東京都台東区浅草2丁目3番1号 東京メトロ銀座線・都営地下鉄浅草線・東武伊勢崎線(東武スカイツリーライン)「浅草駅」より徒歩5分 |
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