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下河辺行平

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下河辺行平


 下河辺行平(しもこうべゆきひら)は、下総国下河辺荘の荘司を務めた武将。

 下野国小山荘を本拠とした小山氏の一族で、小山政光は伯父にあたる。

 弓の名手だった行平は、流鏑馬・笠懸・弓始などの射手に選ばれ、源頼朝からは「日本無双の弓取」と称賛された。

 源頼家の弓の師範でもあったのだという。

 リンクボタン頼家の弓の師範



下河辺荘は八条院領の寄進系荘園で、父行義のときに源頼政の仲介で成立したのだといわれる。









〜源頼朝が挙兵した治承4年〜

 1180年(治承4年)4月、以仁王が平家打倒の令旨を発して源頼政とともに挙兵すると従軍。

 5月10日、伊豆国源頼朝に頼政の挙兵を知らせている。

 その後、以仁王と頼政は平等院の戦いで敗れて討死するが、頼朝が挙兵すると参陣し、10月17日には、波多野義常を討伐。

 10月23日、富士川の戦い後の論功行賞では、これまでどおり下河辺荘の荘司に任命された。

 11月には佐竹征伐に参加。

 12月20日、頼朝の新亭で三浦義澄椀飯を献上した際の御弓始では、愛甲季隆和田義盛らとともに射手に選ばれている。



源頼朝挙兵

源頼朝鎌倉入り





〜源頼朝親衛隊として活躍〜

 1181年(治承5年)4月7日、北条義時結城朝光・和田義茂・梶原景季・宇佐美実政・榛谷重朝・葛西清重三浦義連・千葉胤正・八田知重らとともに頼朝の寝所警護の役に選ばれる。

 1181年(養和元年)7月20日の鶴岡八幡宮上棟式では、頼朝の命を狙った左中太常澄を捕え、その功により下河辺御厨の貢馬を免除された(頼朝を討とうとした左中太常澄)。

 1183年(寿永2年)、志田義広(頼朝の叔父)が頼朝討滅を企てると、頼朝は行平と小山朝政に対応を託し勝利を収めている(野木宮合戦)。

 1184年(寿永3年)2月7日の一ノ谷の戦いでは源範頼に従軍して生田口を攻めた。

 1184(元暦元年)6月1日、頼朝が鎌倉に滞在していた平頼盛(池禅尼の子)の餞別の宴では、小山朝政三浦義澄結城朝光畠山重忠・橘公長・八田知家・後藤基清らとともに京都経験者として招かれている。

 1185年(元暦2年)の壇ノ浦の戦いでも範頼に従軍。

 特に2月1日の葦屋浦の戦いでは、甲冑を売って小舟を買い取って船出したことで知られ、美気敦種を討ち取った。

 1187年(文治3年)8月、後白河法皇の要請により京都市中の乱暴狼藉を鎮めるため、頼朝の使者として千葉常胤とともに上洛。

  同年11月には、梶原景時の讒訴によって謀反の疑いをかけられた畠山重忠のもとに派遣され、重忠を鎌倉に連れ戻り、謀反の疑いを解く手助けをした(梶原景時に讒訴された畠山重忠)。

 1189年(文治5年)の奥州征伐では、阿津賀志山の戦いで奮戦。

 1195年(建久6年)11月6日、頼朝から准門葉(源氏一門に準ずる)という覚書を与えられた。

 頼朝亡き後の1205年(元久2年)6月22日、北条時政の謀略によって起こった畠山重忠の乱では、北条義時に従い弓馬の友と称された畠山重忠の討伐に加わった。

 没年不詳。





〜弓馬の達人〜

 1187年(文治3年)8月15日、源頼朝鶴岡八幡宮の放生会を催し、流鏑馬を奉納した。

 これが鶴岡八幡宮の例大祭の始まりなのだと伝えられている。

 その際、名誉ある射手に選ばれたのが、長江義景・伊澤信光(武田信光)・下河辺行平・小山千法師丸・三浦義村だった。



流鏑馬騎射
リンクボタン小笠原流
流鏑馬神事
リンクボタン武田流


 参考までに、1181年(治承5年)に頼朝の寝所警護に選ばれた11人も弓馬の達人であり、1193年(建久4年)の那須野の巻狩りの際に弓矢の携帯が許された22人にも行平の名がある。

 リンクボタン弓馬の達人だった?北条義時 



鶴岡八幡宮・除魔神事
リンクボタン除魔神事
(鶴岡八幡宮)

 鶴岡八幡宮除魔神事は、源頼朝が「御的始」「御弓始」と称して行った武家の事始めを起源としている。

 行平が射手に選ばれた御弓始が『吾妻鏡』の最初の記録となっている。



〜御弓始と行平の逸話〜

 『吾妻鏡』によると・・・

 1189年(文治5年)正月3日、正月椀飯の宴会中に弓始め式を行うこととした源頼朝

 射手に指名された行平は、弓場に進み出て蹲踞(そんきょ)して片肌を脱いだ。

 頼朝が行平と競う者を募ると、修理進季長(しゅりのじょうすえなが)が進み出て行平の後ろに蹲踞したが・・・

 行平は先に進もうとしない。

 行平の不満そうな様子を見て取った頼朝は榛谷重朝を指名。

 席を立った重朝が行平と季長の間に蹲踞すると、行平は前へ進み出て弓を射はじめた。

 季長は・・・

 恥ずかしくて元の席に戻らず逃げてしまったのだとか・・・。

 それから6日後の正月9日、頼朝の嫡男・頼家の小御所でも弓始めがあった。

 一番 下河辺行平 対 曽我祐信

 二番 結城朝光 対 和田宗実

 三番 藤沢清親 対 橘公成

 四番 三浦義連 対 海野幸氏

 五番 榛谷重朝 対 和田義盛

 御所での弓始めの儀式は、この前年の正月6日や1180年(治承4年)12月12日にも記録されているが、幕府の行事として始められたのは、1189年(文治5年)からなのかもしれない。









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