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源 行 家

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 源行家(みなもとゆきいえ)は、河内源氏の第五代棟梁源為義の十男。

 源義朝の異母弟。

 源頼朝源範頼阿野全成源義経の叔父。

 初めの名乗りは義盛。

 1159年(平治元年)の平治の乱で敗北した後、熊野に逃れて新宮十郎を名乗り、いずれ訪れるであろうチャンスを待っていたのだという。

 1180年(治承4年)4月9日、後白河法皇の第三皇子以仁王が源頼政の要請で平家打倒の令旨を発すると、各地の源氏への伝達を任された。

 この時、後白河法皇の妹八条院の蔵人となり、名も行家と改められた。

 令旨は、4月27日、頼朝のいる伊豆国北条館に届けられ、頼朝は水干に着替え、まず石清水八幡宮を遙拝した上で、謹んで開いて見たのだという。

 その後、頼朝は8月に挙兵

 石橋山の戦いでは大敗したものの、10月には鎌倉入りを果たし、富士川の戦いで平家軍を敗走させている。


以仁王の令旨と源頼朝

平家打倒の命令書〜以仁王の令旨〜



 頼朝の傘下に入らず、独自の行動をしていた行家は、1181年(治承5年)3月10日、甥の源義円(頼朝の異母弟)らと挙兵し、平重衡が率いる平家軍と戦ったが大敗。

 義円は討死し、死傷者は690余人にもなったのだという。

 その後、相模国の松田郷に住みつき、頼朝に所領を求めたが拒否され、木曽義仲と結んだのだという。

 これが原因の一つとなり、1183年(寿永2年)3月、頼朝義仲の関係は急激に悪化したが、義仲が長男義高を頼朝のもとへ人質に出すことで和議が成立している。

 リンクボタン志田義弘の反抗と木曽義仲との対立


相模国松田郷には、頼朝の兄朝長が生まれ育った松田亭があった。

(参考)
松田城跡
リンクボタン松田城址
(松田町)
寒田神社
桜寒田神社
(松田町)



 頼朝との和議によって後方の憂いを取り除いた木曽義仲と行家らは、北陸道を京都へ進軍。

 1183年(寿永2年)5月11日、倶利伽羅峠の夜戦で平家軍を潰滅させると、7月25日、耐えきれなくなった平家一門は、6歳の安徳天皇三種の神器を奉じて六波羅に火をかけて都落ち。

 7月28日、入れ替わるように義仲らが都に入った。

 間もなく義仲と不和になった行家は、平家討伐の名目で京を脱出したが、播磨国での平家軍との戦いで敗北。

 さらに、義仲からも狙われる身となり、紀伊国へ退いたのだという。

 1184年(寿永3年)正月になると、頼朝は弟の範頼義経に義仲追討を命じ、1月20日、範頼が瀬田から、義経が宇治から京を攻撃したことで義仲は惨敗。

 義仲は、わずかな兵で京を脱出するが、範頼の大軍に攻められ、近江国粟津で討死した。

 その後、頼朝は平家追討に取り掛かるが、行家は従軍せずにいた。

 1185年(元暦2年)3月24日、壇ノ浦の戦いで平家が滅亡。

 同年8月4日、頼朝は、謀反の疑いがあるとして行家追討を佐々木定綱に命じた。

 9月2日には、梶原景季を京都の義経のもとに派遣し、義経に行家の居場所を探し出して誅殺するよう命じている。

 これに対して、義経と行家は、10月13日、後白河法皇に「頼朝追討」の院宣を要求。

 10月17日には、頼朝に刺客として派遣された土佐坊昌俊が義経の堀川邸を襲撃。

 義経は、佐藤忠信らとともに戦い、話を聞きつけた行家も参戦して昌俊を敗走させると、翌日、後白河法皇は「頼朝追討」の院宣を義経と行家に与えた。

 しかし、頼朝追討に賛同する者は少なく、10月29日、頼朝が大軍を率いて上洛する構えを見せると、11月3日、義経と行家は都を落ちた。

 11月6日、摂津国の大物浦から西国へと船出したが難破。

 その後、二人は行方をくらましていたが・・・

 1186年(文治2年)5月12日、行家は和泉国に潜伏しているところを北条時定に討ち取られた。


 桜源義経と源行家の謀反







〜土佐坊昌俊の義経襲撃〜

 1185年(文治元年)10月17日、土佐坊昌俊は60数騎の軍勢で義経のいる堀川の館を襲撃(参考:土佐坊昌俊の義経襲撃)。

 しかし、失敗に終わり、鞍馬に逃亡した昌俊は、捕らえられて六条河原で梟首された。

 義経は事前に襲撃を察知していたと考えられ、頼朝義経を挑発するためのものだったとも考えられている。


六条堀川館跡
リンクボタン六条堀川館跡
(京都市下京区)
若宮八幡宮
リンクボタン若宮八幡宮
(京都市下京区)

 六条堀川館は、源頼義義家為義義朝義経の邸宅で、「源氏累代の館」と呼ばれていた。

 若宮八幡宮は、頼義が邸内に石清水八幡宮を勧請した社。


冠者殿社
リンクボタン冠者殿社
(京都市下京区)

 冠者殿社は、土佐坊昌俊を祀る社で、八坂神社の境外末社。



〜奥州平泉で自刃した義経〜

高館義経堂
リンクボタン衣川館
(高館義経堂)

 大物浦で難破して行家らと別行動となった義経は、吉野山に逃亡した後、1186年(文治2年)の5月から閏7月頃にかけて、比叡山の僧兵:俊章・承意・仲教らの庇護を受け、興福寺の聖弘にも匿ってもらっていたのだという。

 1187年(文治3年)の春ごろには、奥州へ下り、平泉の藤原秀衡に匿ってもらっていたが、その年の10月29日、秀衡が亡くなり、1189年(文治5年)閏4月30日、頼朝の圧力に屈した藤原泰衡に攻められ、衣川館で自刃した。


延暦寺
リンクボタン比叡山
興福寺
リンクボタン興福寺


リンクボタン源義経を匿った比叡山の僧兵

リンクボタン源義経を匿った興福寺と鎌倉に呼び出された聖弘



源義経

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