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北条義時2022年の大河は「鎌倉殿の13人」  合戦承久の乱  後鳥羽天皇後鳥羽上皇  武士北条義時

源義経を匿った興福寺と
鎌倉に呼び出された聖弘


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 源頼朝と対立し、1185年(文治元年)11月3日、都を落ち、
 11月6日には、摂津国大物浦から西国(九州)へ向けての船出に失敗して、吉野山へ逃亡した源義経

 1186年(文治2年)の5月から7月頃までは、比叡山に匿われていたことが判明したが、その後は行方知れずになっていた。

 リンクボタン源義経を匿った比叡山の僧兵


 しかし、9月20日、義経の郎党・堀景光が京都に潜伏していたところを比企朝宗に捕えられた。

 景光の白状によって義経が興福寺に身を潜めていることが判明。

 翌日、比企朝宗が数百騎を率いて興福寺の聖弘(しょうこう)の住坊を取り囲んだが、義経を見つけ出すことはできず、京都へ帰っている。


興福寺五重塔
リンクボタン興福寺

 興福寺は、武家不介入の治外法権を維持していた寺院。

 多くの僧兵を抱え、その強大な力で大和国を支配し、源頼朝も大和国に守護を置くことはできなかった。

 そういう寺院に武力をもって踏み込んだことで、12月25日には、別当の信円が自治権の侵害を朝廷に訴えたが、一条能保が陳謝したことで収まっている。






 興福寺が義経を匿っていたことを知った鎌倉の頼朝は・・・

 翌1187年(文治3年)、義経を匿ったとして興福寺の聖弘(しょうこう)を鎌倉に呼び出した。

 聖弘は義経と師檀の関係にあって、義経のために祈祷していたのだという。

 鎌倉に下った聖弘は小山朝光に預けられていたが、3月8日、頼朝と面会した。

 頼朝は・・・

 「義経は天下を乱す凶臣で、その行方をくらまし、朝廷からは処刑するよう求められている。

 そのため、天下の人々が皆義経に従わないでいるのに、あなただけが義経のために祈祷を行っている。

 しかも、義経に同意して何か企んでいるという噂も耳にするが、それはどうしたことか」

 と尋問すると、聖弘は・・・

 「義経があなたの代官として平家を追討するときに、義経とは祈祷の約束をしたので、それ以来誠意をもって祈祷を続けておりました。

 これが報国の志ではないと言われるのでしょうか。

 また、義経が関東から厳しく咎められて行方をくらましたとき、師檀の関係のよしみから奈良に来ましたので、一時匿い、頼朝様と和解するよう諫めた上で、下法師らをつけて伊賀国へ送り出しました。

 その後は音信不通です。

 祈祷は謀反を祈ってのことではなく、義経を諫めて謀反の心を宥めるもので、罪に問われるものではありません」

 と答え、さらに・・・

 「関東の今の無事は義経の武功によるものです。

 しかし讒言を聞き入れて御恩と奉公の関係を忘れ、恩賞の地を取り上げてしまえば、逆心を抱くのは当然のことです。

 早々に義経を呼び返して和解し、兄弟で水魚の交わりをする事が国を治める方法です。

 これは義経に味方して申したのではなく、天下の平穏を考えてのことです」

 と続けた。

 この聖弘の態度に感心した頼朝は、さっそく勝長寿院の供僧職を与え、関東繁栄の祈祷を命じたのだと伝えられている。


〜義経は・・・〜

 興福寺を去った義経は、1187年(文治3年)2月10日、伊勢・美濃などを経て奥州平泉藤原秀衡を頼っている。

 正室の郷御前と子も一緒だった。

 一行は、山伏や稚児に変装していたのだという。



源義経

源義経をめぐる京都

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二代執権北条義時

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歴史めぐり源頼朝



興福寺
リンクボタン興福寺

 興福寺は、平城京遷都の710年(和銅3年)に創建された藤原氏の氏寺。
 平安時代には南都七大寺に数えられ、古代・中世を通じて大和国を支配した。


奈良市登大路町48番地

JR奈良駅から市内循環バス「県庁前」下車すぐ。
近鉄奈良駅から徒歩5分。

世界 興福寺は世界文化遺産
(古都奈良の文化財)


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