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平重衡は、平清盛の五男。 1180年(治承4年)12月28日、東大寺・興福寺の反平家勢力を一掃するため、南都焼討をしたことで知られる武将。 1184年(寿永3年)2月7日の一ノ谷の戦いでは、生田の森を守備していたが、梶原景時らに捕えられた。 松の根に腰を下ろして無念の涙を流す重衡に村人が濁酒を差し出すと、喜んだ重衡は「ささほろや波ここもとを打ちすぎて須磨でのむこそ濁酒なれ」と詠んだのだと伝えられている。 |
※ | 『平家物語』は、武蔵国児玉党の庄高家と梶原景季が重衡を追い詰めて生け捕りにしたと伝えている。 |
一ノ谷の戦い後、土肥実平に預けられていたが、3月2日には実平が西国へ出陣するため源義経に預けられ、3月10日、鎌倉へ送られるため梶原景時の護送で京都を発った。 3月27日、伊豆の国府(三島)に到達した重衡は、翌日、北条に来ていた源頼朝に対面。 勝ち誇る頼朝に対して重衡は、 「弓馬に携わる者、敵のために虜へらるること、あながち恥辱にあらず。早く斬罪に処せらるべし」 と述べたのだという。 この態度に感心した頼朝は、工藤祐経を付けて重衡を客として厚遇し、一族の冥福を祈るよう阿弥陀如来像を与えたのだと伝えられている。 1185年(元暦2年)3月、壇ノ浦で平家が滅亡すると、鎌倉の重衡は南都に引き渡されることとなり、木津川で斬首された。 平重衡と平宗盛 |
頼朝が重衡に与えた阿弥陀如来像は、鎌倉の教恩寺の本尊として伝えられているのだという。 |
東大寺 (奈良市) |
興福寺 (奈良市) |
東大寺の再興に積極的な助勢を行った源頼朝は、のちの1195年(建久6年)、大仏殿の落慶供養に参列するため上洛している。 |
東大寺の転害門は、平重衡の南都焼討から免れた貴重な遺構。 のちに大仏殿の落慶供養に参列した源頼朝を暗殺しようと、平景清が隠れていた門なのだという。 |
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