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小動神社(こゆるぎじんじゃ)は、文治年間(1185〜90)、江ノ島詣でに訪れた佐々木盛綱が、近江の八王子社を勧請したのが始まりという。 小動神社の建つ小動岬には、風もないのに揺れる松があり、「こゆるぎの松」と呼ばれていたことから、「小動」の名が付いたといわれる。 盛綱は、この松を「天女遊戯の霊木」と称賛したのだと伝えられている。 明治の神仏分離によって「八王子社」から「小動神社」と改められた。 7月の天王祭では、江ノ島:八坂神社の神輿との行合祭が行なわれる。 |
建速須佐之男命 (たけはやすさのおのみこと) 櫛稲田姫命 (くしいなだひめのみこと) 八柱御子神 (やはしらのみこがみ) 建御名方神 (たけみなかたのかみ) 日本武尊 (やまとたけるのみこと) 歳徳神 |
小動神社が鎮座する小動岬は、七里ヶ浜の西の端。 小動神社が八王子社と呼ばれていたことから八王子山とも呼ばれていた。 |
八王子社とは |
全国の八王子社で祀られていたのは、近江国の牛尾山(八王子山)の山岳信仰と天台宗・山王信仰が融合した神仏習合の神(八王子権現)。 日吉山王権現もしくは牛頭天王(ごずてんのう)の眷属である八人の王子。 明治の神仏分離によって日吉山王権現・牛頭天王は廃された。 |
京都の八坂神社の八角神輿は、牛頭天王が頗梨采女(はりさいにょ)との間にもうけた八人の子(八柱御子神)の輿。 牛頭天王は須佐之男命と同一視されてきた祇園精舎の守護神。 八人の王子の母頗梨采女は、須佐之男命の后で櫛稲田姫命と同一視されてきた神。 八坂神社も小動神社も神仏分離までは牛頭天王を祀る社だった。 |
新田義貞の黄金の太刀 |
1333年(元弘3年)の鎌倉攻めで鎌倉幕府を滅ぼした新田義貞は、八王子社に戦勝を祈願し、後に、太刀一振と黄金を寄進したのだという。 |
赤いほっかむりをした狛犬。 狛犬は地元の漁師の寄進。 |
境内社 |
小動神社の別当寺 |
浄泉寺は小動神社の別当寺院だった。 小動神社は、神仏分離後もしばらく浄泉寺に管理されていたらしい(1917年(大正6年)7月まで)。 |
八王子社を勧請した佐々木盛綱 |
佐々木盛綱は、近江国の宇多源氏の棟梁佐々木秀義の三男。 父秀義は1159年(平治元年)の「平治の乱」で源義朝に味方して敗れ、奥州へ逃れる途中、渋谷荘の渋谷重国に匿われた。 以後、20年余りを渋谷荘で過ごし、子の定綱、経高、盛綱、高綱は、伊豆の蛭ヶ小島に流されていた源頼朝に仕えるようになる。 1180年(治承4年)の頼朝の挙兵では、四兄弟が馳せ参じ活躍した。 最初の戦いとなった山木館襲撃では、盛綱は加藤景廉とともに伊豆国目代の山木兼隆を討ち取っている。 このとき一番矢を放ったのは兄の経高だった。 弟の高綱は、のちの宇治川の先陣争いで知られている。 ![]() |
佐々木氏発祥の地にある社 |
沙沙貴神社は、近江源氏・佐々木氏発祥の地に鎮座する神社。 大鳥居の掲額「佐佐木大明神」の字は、源頼朝の筆と伝えられている。 |
1月と7月の例大祭 |
![]() ![]() (1月) |
![]() (7月) |
1月の例大祭は湯花神楽祭と呼ばれ、鎌倉神楽が奉納して新しい年の豊作や大漁を祈ります。 7月の例大祭は天王祭と呼ばれ、江の島の八坂神社との行合祭。 天王祭は祇園信仰の祭礼で、そのもとは京都八坂神社の祭礼「祇園祭」。 |
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鎌倉市腰越2−9−12 0467(31)4566 江ノ電「腰越駅」より徒歩5分 |
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