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三条天皇は冷泉天皇の第二皇子。 母は藤原兼家の長女・藤原超子。 1017年(寛仁元年)5月9日、崩御(42歳)。 三条天皇亡き後、道長は三后のすべてを我が娘で占めるという前代未聞の偉業を達成(太皇太后・彰子、皇太后・妍子、皇后・威子)。 「この世をば わが世とぞ思ふ 望月の かけたることも なしと思へば」 と詠んだのだという。 |
望月の歌~三后を娘たちで占めた藤原道長の栄華と紫式部の歌 |
三条天皇は、鹿苑寺の北の巌陰で火葬されたのだという。 |
藤原超子は、東三条殿(東三条院)で三条天皇を出産。 藤原詮子も一条天皇を産んでいる。 藤原妍子の御所、一条天皇の中宮・藤原彰子が産んだ後朱雀天皇の里内裏としても使用された。 |
枇杷殿は、中宮・藤原妍子が里内裏として使用した邸宅。 三条天皇も内裏が焼失した際には遷御している。 |
高松神明神社は、源高明が造営した高松殿の鎮守。 藤原道長と結婚した高明の娘明子は、ここに住んで高松殿と呼ばれた。 三条天皇の皇子・敦明親王の御所ともなり、道長の娘で敦明親王の妃となった寛子は、高松殿女御と呼ばれている。 |
大極殿は、平安京の大内裏(平安宮・宮城)にあった朝堂院の正殿。 伊勢神宮に奉仕する斎王(斎宮)は、伊勢に赴く際、大極殿で天皇から「別れの御櫛」を挿してもらったのだという。 1014年(長和3年)9月20日、三条天皇の第一皇女・当子内親王が斎王(斎宮)として伊勢へ赴くことに。 「別れの御櫛」に臨んだ三条天皇は、互いに振り返ってはならない決まりにもかかわらず、別れがたさから思わず振り返ってしまったのだとか。 |
斎宮邸は、斎王(斎宮)の居所で、西京高校がその跡地の一つとされている。 |
藤原妍子が産んだ第三皇女の禎子内親王は、後朱雀天皇の皇后となった。 龍安寺内には、後朱雀天皇の円乗寺陵と禎子内親王の円乗寺東陵がある。 |
京都市北区衣笠西尊上院町 |
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