藤原彰子と藤原実資の取次役を務めた紫式部 |
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1011年(寛弘8年)、一条天皇が崩御すると、翌長和元年、中宮藤原彰子は皇太后となり内裏を出て枇杷殿に居住。 枇杷殿の彰子のもとには藤原実資がたびたび伺候していた。 『小右記』によると・・・ 1013年(長和2年)5月25日、実資は、越後守為時の娘である女房を通じて、皇太后に雑事を申し上げていたのだという。 越後守為時の娘とは紫式部のこと。 実資は藤原道長の批判者で、彰子は一条天皇崩御後の道長の態度に不満をもっていたことから、実資を贔屓にしていたところがあったらしい。 そして、紫式部は二人から信頼されていたらしい。 |
1011年(寛弘8年)6月13日、一条天皇は三条天皇に譲位。 その時に東宮(皇太子)に立てられたのは、藤原定子が産んだ第一皇子の敦康親王ではなく、彰子が産んだ第二皇子の敦成親王。 第一皇子が皇太子になれないのは異例のことだった。 彰子は、敦康親王を無視して敦成親王を皇太子にしようとする道長に対して激怒していたのだと伝えられている。 |
東宮になれなかった敦康親王~伊勢物語と外戚・高階氏~ |
枇杷殿は、藤原道長の本邸・土御門殿の西側にあった御殿。 一条天皇が崩御した後、彰子は枇杷殿に移り、1015年(長和4年)の内裏焼失で三条天皇が遷御するまで使用している。 |
彰子と実資の取次ぎをしていた年の翌1014年(長和3年)正月、紫式部は彰子の病気快復を願って清水寺を参っている。 この頃、紫式部は彰子付の女房を退いていたとする説がある。 退いたのは実資を彰子に取り次いだことで道長から宮中を追放されていたという説も。 そして、この年、死去したという説も。 |
紫式部の歌~清水寺で出会った伊勢大輔との贈答歌(伊勢大輔集)~ 藤原彰子の歌~撫子を手に取る幼い我が子を見て詠んだ歌~ |
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