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平安時代には、貴族による観音信仰が高まり、藤原道長をはじめ、宮中に仕えた紫式部・清少納言などの女流文学者が盛んに観音霊場を参詣した。 清水詣は京都の清水寺、石山詣は琵琶湖大津の石山寺、初瀬詣は大和国の長谷寺を参詣すること。 清水寺・石山寺・長谷寺は西国三十三か所の札所寺院。 御詠歌は西国三十三所中興の祖である花山法皇が詠んだもの。 後白河法皇は、観音菩薩の効験あらたかな寺として清水寺・石山寺・長谷寺・粉河寺(紀伊国)・西寺(近江国)・六角堂を挙げている。 |
清水寺は、778年(宝亀9年)に興福寺の僧・延鎮が開いた寺。 798年(延暦17年)には坂上田村麻呂が自邸を仏殿として寄進し、十一面千手観音を本尊として安置したのだという。 西国三十三所第十六番。 |
~清少納言『枕草子』~ |
清少納言は『枕草子』の「さわがしきもの」の中で、十八日の観音菩薩の縁日に、清水寺へ庶民が集まってくることを騒々しいと表現している。 「十八日に、清水に籠りあひたる・・・」 |
~紫式部『源氏物語』~ |
紫式部は『源氏物語』の「夕顔」の巻で、清水寺の方は灯かりがたくさん見えて、参詣者も多いことを描いている。 「清水の方ぞ光多く見え、人のけはひもしげかりける」 |
~紫式部と伊勢大輔の贈答歌~ |
1014年(長和3年)正月、仕えていた藤原彰子の病気快復祈願のため清水寺を参った紫式部は、伊勢大輔と出会い歌の贈答をしている。 |
紫式部の歌~清水寺で出会った伊勢大輔との贈答歌(伊勢大輔集)~ |
~菅原孝標女『更級日記』~ |
菅原孝標女は、夢の中で清水寺の僧から前世は清水寺の仏師だと告げられたのだとか。 |
~赤染衛門『赤染衛門集』~ |
赤染衛門が清水寺に参ると橋供養の散華が行われていたのだとか。 |
馬駐 |
仁王門 |
清水寺を参詣した女性たちは、馬駐に牛を繋ぎ、車宿で衣服を整えて仁王門の石段を上ったのだという。 仁王門の額は藤原道長に仕え、一条朝の四納言の一人に数えられた藤原行成の筆。 |
本堂 (清水の舞台) |
音羽の滝 |
本堂に安置されている十一面千手観音立像は33年に一度開帳される秘仏。 御詠歌は「松風や音羽の滝の清水をむすぶ心はすずしかるらん」。 |
石山寺は、747年(天平19年)、聖武天皇の勅願で創建された寺院。 開山は東大寺を開いた良弁。 平安時代には、円融法皇・藤原兼家・藤原道長・藤原詮子などが参詣したことで石山詣が盛んに行われた。 西国三十三箇所第十三番。 |
~紫式部『源氏物語』~ |
伝承によると、夫・藤原宣孝に先立たれた紫式部は石山寺に参籠して『源氏物語』を書き始めたのだという。 |
~清少納言『枕草子』~ |
清少納言の『枕草子』には、寺は・・・ 壺坂寺・笠置寺・法輪寺・霊山寺・石山寺・粉河寺・志賀寺と記されている。 そして、仏は如意輪観音・・・ともある。 石山寺の本尊は如意輪観音。 |
~和泉式部『和泉式部日記』~ |
和泉式部は石山寺に7日間参籠し、その間、敦道親王と和歌のやりとりをしたのだとか。 |
~赤染衛門『赤染衛門集』~ |
「関越えてあふみちとこそ思ひつれゆきの白浜ここはいづこぞ」 赤染衛門は石山寺の涅槃会に詣でたが、逢坂の関を越えると打出浜には雪がとても深く積もって真っ白で、どこなのかわからない状況だったのだとか。 |
~藤原道綱母『蜻蛉日記』~ |
藤原道綱母は、初瀬詣・石山詣を重ねて出産を祈ったが叶わなかったのだという。 |
本堂 |
源氏の間 |
本堂に安置されている如意輪観音は33年に一度開帳される秘仏。 御詠歌は「後の世を 願うこころは かろくとも ほとけの誓い おもき石山」 『源氏物語』は、本堂の源氏の間で「須磨」「明石」の巻から書き始められたのだとか。 |
紫式部像 |
紫式部供養塔 |
境内には紫式部像や紫式部供養塔がある。 |
長谷寺は、686年(朱鳥元年)、興福寺の僧・道明が創建。 727年(神亀4年)、東大寺を開いた良弁の弟子・徳道が聖武天皇の勅命により、十一面観音像を安置した。 西国観音三十三所巡礼の根本道場。 |
~清少納言『枕草子』~ |
清少納言の『枕草子』によると・・・ 本堂への登廊は、若い僧侶たちは燈籠高い歯の下駄で上り下りしていたが、清少納言は危険なので高欄につかまりながら上ったのだとか。 |
~紫式部『源氏物語』~ |
『源氏物語』では、夕顔の娘・玉鬘が参詣した寺。 |
~赤染衛門『赤染衛門集』~ |
赤染衛門は、紅葉の枝を折って土産に持ち帰ったが枯れってしまったのだとか・・・ 「つとにとて折りし紅葉は枯れにけり嵐のいたく吹しまぎれに」 |
~菅原孝標女『更級日記』~ |
菅原孝標女は、わざわざ後冷泉天皇即位の大嘗会の御禊の日に初瀬詣に出発し、周りから不思議な目で見られたらしい・・・ |
本堂 |
登廊 |
本堂は、清水寺の本堂(清水の舞台)と同じ懸造り。 安置されている十一面観音は、鎌倉の長谷寺に伝わる「長谷寺縁起絵巻」によると、徳道が近江国で譲り受けた楠の霊木で造立されたもの。 御詠歌は「いくたびも まいる心は はつせでら 山も誓いも 深き谷川」 登廊は、仁王門から本堂まで続く上中下の三つ屋根付き階段。 |
鐘楼 |
玉鬘神社 |
鐘楼は、登廊を登り切った所にある建物(重要文化財)。 清少納言は、法螺貝を吹く者がいてたいへん驚いたらしい。 玉鬘神社は、紫式部の『源氏物語』に登場する姫君・玉鬘を祀る社。 |
~西国三十三か所と花山法皇~ |
京都山科の元慶寺は、西国三十三所中興の祖・花山法皇(花山天皇)が出家した寺。 花山天皇は、986年( 寛和2年)6月23日、藤原兼家・道兼父子の策略で出家(寛和の変)。 出家後、長谷寺を開いた徳道が閻魔大王から授かった観音霊場三十三ヶ所の宝印を納めたとういう石棺を摂津国の中山寺で探し出し、三十三の観音霊場を巡礼したのだという。 |
718年(養老2年)、病の徳道が生死をさまよっていると、閻魔大王が夢の中に現れ、悩める人々を救うよう告げられ、観音霊場三十三ヶ所の宝印を授けられた。 しかし、人々に信じてもらうことが出来ず、仕方なく宝印を摂津国の中山寺の石棺に納めたのだという。 それから約270年後、花山法皇はその石棺を探し出し、三十三の観音霊場を巡礼。 そのため、花山法皇は西国観音霊場三十三所の中興の祖と呼ばれている。 |
中山寺 (宝塚市) |
石の櫃 (中山寺の石棺) |
中山寺は源頼朝も信仰した我が国初の観音霊場。 宝印が納められた石棺は白鳥塚古墳の石の櫃。 |
花山院菩提寺 (三田市) |
花山法皇廟 (三田市) |
花山院菩提寺は花山法皇が隠棲した地で、境内には花山法皇の御廟がある。 |
鎌倉長谷寺 |
観音堂 |
鎌倉の長谷寺は、736年(天平8年)の開創と伝えられ、開基は藤原房前、開山は徳道。 観音堂には奈良の長谷寺の十一面観音と同じ「長谷寺式十一面観音」が安置されている。 |
鎌倉の長谷寺に伝えられる「長谷寺縁起絵巻」は、奈良の長谷寺の草創と十一面観音造立の由来を描いたもの。 開基の藤原房前の援助を受けて徳道が十一面観音を造立し、行基によって開眼供養が行われたことなどが描かれている。 |
伝説によると・・・ 徳道が造立した十一面観音像は二体。 一体は奈良の長谷寺に置かれ、もう一体は海に流されて相模国の三浦半島に流れ着き、鎌倉に運ばれたのだという。 |
六角堂(頂法寺)は、四天王寺を建立するための用材を求め、この地を訪れた聖徳太子が、唐崎明神のお告げで得た杉の霊木で六角の堂を建立し、如意輪観音を祀ったのが始まりなのだとか。 西国三十三所第十八番。 藤原道長の権勢の中で「賢人右府」と呼ばれた藤原実資は60回を超える参詣をしていたのだという。 清水寺も信仰していた実資は毎月18日に参詣し、それ以外にも娘に参詣させていたらしい。 御詠歌は、「わが思う心のうちは六の角 ただ円かれと祈るなりけり」。 |
藤原実資の観音信仰と二人の娘~清水寺・長谷寺・石山寺・六角堂~ |
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