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『栄花物語』によると、藤原道長が源倫子と結婚したのは、987年(永延元年)12月16日。 道長22歳、倫子24歳。 道長は藤原兼家の五男。 兼家の正室・時姫の生んだ子からしても三男。 兄には道隆・道兼がいた。 道隆は嫡男。 道兼は寛和の変で花山天皇を出家させた立役者。 道長が倫子と結婚したのは、寛和の変の翌年。 寛和の変では、姉の詮子が生んだ一条天皇が即位。 兼家一族に順風が吹き始めているときだが、道長は従三位・左少将。 一方、倫子は左大臣・源雅信の娘。 雅信は出世の望みの薄い道長へ嫁がせるより、一条天皇に入内させることを考えていたらしい。 しかし、道長を強く推したのが雅信の正妻・藤原穆子。 『栄花物語』によると・・・ 三位中将・藤原道長は、土御門邸の左大臣・源雅信が将来の后にしようと思って大切に育てていた娘・倫子に強く心惹かれた。 しかし、雅信は道長を婿として土御門邸に迎えるのは大反対。 その理由は「口わき黄ばみたる主」だから(年若く経験が乏しい)。 ところが、雅信の正妻・藤原穆子は道長を 「この君ただならず見ゆる君なり」 として雅信の反対を押し切ってしまう。 穆子は、一条天皇も東宮の居貞親王もまだ若く倫子には不釣り合いとして、急いで道長を婿にしてしまうが・・・ これには雅信も兼家も唖然としてしまったのだとか。 |
土御門邸(土御門第)は、源雅信の邸宅。 雅信は、一条天皇を即位させ摂政として権勢をふるっていた藤原兼家を牽制できる唯一の人物だった。 道長と倫子の結婚は、兼家と雅信の緊張緩和につながったのだという。 雅信の死後、土御門邸は道長が継承している。 |
『栄花物語』は、倫子や彰子に仕えた赤染衛門が作者と言われている。 「紫式部の物語論」の影響を強く受けているらしい。 |
紫式部の物語論~『源氏物語』~蛍の巻~ |
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