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| 韮山城(にらやまじょう)は、伊豆国田方郡韮山の天ヶ岳にあった平山城。 文明年間(1469年〜1486年)に堀越公方足利政知の家臣・外山豊前守が築いたことに始まる。 1493年(明応2年)、伊豆国内の内紛に乗じて攻め入ってきた駿河国興国寺城の北条早雲(伊勢盛時(宗瑞))が奪い取り、本格的な築城に取り掛かった。 天ヶ岳山頂周辺と南西尾根と北東尾根に曲輪や堀切を設けられ、北西に伸びる龍城山尾根上の幅約100m、長さ約400mの範囲には、北から三の丸・権現曲輪・二の丸・本丸と並んでいたのだという。 龍のような形をした山の尾根にあったことから「龍城」とも呼ばれていた。 2025年(令和7年)、「韮山城跡 附 付城跡」(にらやまじょうあと つけたり つけじろあと」として国の史跡に指定されている。 |

| 早雲は、韮山城を拠点に相模国へ進出。 1495年(明応4)に小田原城を奪取し、1512年(永正9年)に玉縄城(鎌倉)を築城。 1516年(永正13年)には三浦道寸の新井城(三浦市)を落として相模国全域を平定した。 小田原城奪取後もそちらへ移ることなく、1519年(永正16年)に没するまで韮山城を居城としていたのだという。 |

| 「枯るる木にまた花の木を植えそへてもとの都になしてこそしめ」 |

| 韮山城の堀の一部で、農業用のため池として使用されていた。 |
| 熊野神社は、北条早雲が韮山城の守護神として祀った。 |


| 韮山は、源頼朝が流された地。 韮山城址からは、流人頼朝が暮していたという蛭ヶ小島がよく見える。 |
| 伊豆討ち入り 堀越公方を滅ぼして 戦国大名となった北条早雲 |

| 室町時代、韮山には室町幕府の出先機関だった堀越公方が置かれていた。 堀越公方の御所は成福寺辺りにあったとされ、旧北条氏邸の一部が利用されていたと考えられている。 旧北条氏邸は、源頼朝の挙兵に従った北条時政の館跡。 |
| 足利茶々丸は堀越公方足利政知の子。 1493年(明応2年)、伊豆国に攻め入った北条早雲は、茶々丸を追放し、伊豆一国を治める戦国大名となった。 茶々丸は願成就院で自害したいわれてきたが、近年の研究では甲斐国で捕らえられ自害したことが明らかになっている。 |
| 開城と廃城 |
| 1590年(天正18年)の豊臣秀吉の小田原攻めでは、北条氏規(北条氏康の五男)が城に籠もり、豊臣勢4万の兵を3千という寡兵で4ヶ月も守り抜いたが・・・ 徳川家康の説得によって、6月24日に開城。 その後、家康が関東に入ると、内藤信成が伊豆国1万石を与えられ韮山城主となるが、関ヶ原の戦い後の1601年(慶長6年)に駿府城を与えられたことから韮山城は廃城となった。 |
| 北条氏直が降伏して小田原城を開城すると、北条氏は韮山城主だった氏規が継承し、江戸時代には狭山藩を与えられ明治維新まで存続している。 |
| 清見寺は「徳川家康学びの寺」。 清見寺の梵鐘は、小田原征伐で韮山城攻撃の陣鐘として使用されたのだという。 |
| 江川邸・江川酒 |

| 江川邸は、戦国時代に北条氏に仕えた江川氏の邸宅。 江川邸の裏山は韮山城の東を防衛する江川砦となっていた。 近年、復活した「江川酒」は、北条早雲の命名。 |
| 韮山城まつり |
| 「韮山城まつり」は、韮山城を拠点に戦国を駆け抜けた北条早雲を知ってもらうための祭。 |

| 静岡県伊豆の国市 伊豆箱根鉄道駿豆線韮山駅から徒歩15分 |
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| 北条早雲の城 |




| 韮山は源頼朝ゆかりの地 |






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