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河村城は、相模国河村郷(現在の山北町)を本拠とした河村氏の居城だったと伝えられている。 河村郷は相模国から甲斐・駿河へと至る交通の要衝だった。 南北朝期の観応の擾乱の際には、河村秀国、秀経が南朝方の新田義興らとともに籠城し、北朝方の畠山国清を大将とする足利尊氏軍の攻撃を凌いだという記録が残されているが、南原の戦いで南朝方は惨敗し、河村一族のほとんどは戦死したという。 その後、畠山国清、関東管領・上杉憲実、大森憲頼が支配した。 戦国時代に入ると後北条氏の支配下となるが、1590年(天正18年)の豊臣秀吉の小田原征伐で落城し、廃城となった(参考:小田原城)。 現在は「河村城址歴史公園」として整備されている。 |
河村氏は、藤原秀郷の後裔で、波多野秀高が河村郷を本拠としたことに始まっている。 河村城は、秀高の築城とされるが、築城時期は定かではない。 (参考:波多野城址) |
河村義秀は、河村城を築いた河村秀高の子。 1180年(治承4年)、源頼朝が挙兵すると、義秀は平家方に属して戦い、石橋山の戦いで頼朝を苦しめた武将の一人。 富士川の戦い後、大庭景親とともに投降し、身柄は大庭景義に預けられ、所領は没収された(参考:源頼朝歴史めぐり:富士川の戦い)。 『吾妻鏡』によると、1190年(建久元年)8月16日、鶴岡八幡宮で催された流鏑馬で、射手の一人が故障してしまい、神事が中止となる事態になろうとしたところ、大庭景義が頼朝の前に出て、すでに処刑されているはずの河村義秀を推薦した。 頼朝は義秀が生きていることに驚いたが、「し損じた場合は重ねて罪科問うべし」として景義の願いを聞き入れた。 義秀は期待に応えて悉く的を射抜き、本領を安堵されたのだと伝えられている。 以後、頼朝の二度の上洛や富士野巻狩りにも随行している。 |
河村城址 |
田園風景 |
酒匂川 |
洒水の滝 |
河村城址・洒水の滝のハイキングコースは、「美しい日本の歩きたくなるみち500選」。 J R御殿場線山北駅→河村城址→洒水の滝→山北駅の約1時間45分の行程。 |
河村城址と洒水の滝へのみち〜山北町〜(okadoのブログ) |
神奈川県足柄上郡山北町山北 JR御殿場線「山北駅」下車徒歩25分 |
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