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源頼朝の三男・貞暁
〜仁和寺に入った御落胤〜


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 『吾妻鏡』によれば・・・

 源頼朝には、常陸介藤時長の娘大進局との間に生まれた子がいた。

 常陸介藤時長とは、伊達朝宗のこと。

 源為義の娘を母としていることから頼朝とは縁戚関係にあったともいわれいるが、定かなことは不明。

 大進局は、御所勤めをしていたが、普段から頼朝と密通していたのだという。

 そして、1186年(文治2年)2月26日、長門江七景遠の浜の家で男子を出産。

 この子がのちの貞暁。

 しかし、北条政子の嫉妬によって、予定されていた出産後の儀式はとりやめとなり、貞暁を育てていた長門江太景国は、政子の不興をかったことから、貞暁とともに深沢の里あたりに隠れ住んだのだという。

 1191年(建久2年)1月23日、頼朝は、政子の嫉妬が激しいため、大進局に京に近い伊勢国に所領を与えて上洛を促し、翌年5月19日、貞暁を仁和寺に入室させた。

 このとき、頼朝は貞暁に守り刀を与えたという (大進局も京都に移り住んでいたもの考えられている。)。

 その後、貞暁は高野山に登り、1231年(寛喜3年)2月22日没。

 母に先だって亡くなったともいわれるが大進局の没年は不明。



仁和寺
リンクボタン仁和寺
(京都)


源氏三代の墓
リンクボタン源氏三代の五輪塔
(高野山)

 高野山西室院の五輪塔は、貞暁が頼朝頼家実朝の菩提を弔うために建てたものと伝えられている。





〜伊達朝宗と
源義経の子経若の伝説〜


 『吾妻鏡』の記録では・・・

 1187年(文治3年)、源義経奥州平泉に下った際、郷御前と息子と娘を連れていた。

 郷御前と娘は義経とともに最期を遂げたが、息子はどうなったのか・・・

 一説によると、息子の名は経若といい、常陸入道念西に預けられていたのだという。

 念西は、伊達氏の初代当主・伊達朝宗のことと考えられ、経若を養子としたという伝承があるようだ。

 そして、この経若が後に下野国にあった中村城の城主となった中村朝定なのだとか。

 参考までに、義経と郷御前の終焉の地に建てられた高館義経堂は、伊達氏二十代当主の伊達綱村によって建てられたもの。







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