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昇進を重ねた源実朝

編集:yoritomo-japan.com








 1203年(建仁3年)9月7日、従五位下征夷大将軍に任命された後の源実朝は、次々に昇進を重ねていった。


1203年(建仁3年)10月24日
右兵衛佐

1204年(建仁4年)1月7日
従五位上

1204年(建仁4年)3月6日
右近衛少将

1205年(元久2年)1月5日
正五位下

1205年(元久2年)1月29日
右近衛中将

1206年(建永元年)2月22日
従四位下

1207年(建永2年)1月5日
従四位上

1207年(承元元年)12月9日
正四位下

1209年(承元3年)4月10日
従三位

1209年(承元3年)5月26日
右近衛中将

1211年(承元5年)1月5日
正三位

1212年(建暦2年)12月11日
従二位

1213年(建保元年)2月27日
正二位

1216年(建保4年)6月20日
権中納言

1216年(建保4年)7月22日
左近衛中将



 1216年(建保4年)9月18日、北条義時大江広元を呼んで実朝の昇進について密談し、9月20日、広元が義時の使いとして実朝を諫めているが、

 「源氏の正統は自分の代で絶えるから、せめて官職を帯び、家名を上げたいと思う」

 と答えたのだという。

 この言葉のなかには、後継者には「後鳥羽上皇の皇子」という実朝の深い考えがあったのだという説がある。


 そして、実朝は、1218年(建保6年)になると、めざましい昇進を遂げることになる。

 この年の2月10日、大江広元実朝が大将を望んでいたことから、京都に使者を発している。


1218年(建保6年)1月13日
権大納言

1218年(建保6年)3月6日
左近衛大将

1218年(建保6年)10月9日
内大臣

1218年(建保6年)12月2日
右大臣


 これらの昇進は、「後鳥羽上皇による『官打』であった」とする説もある。

 「官打」というのは、「身分不相応な位に昇らせ不幸する」ということ。

 ただ、後鳥羽上皇実朝は良好な関係にあったとするのが近年の有力説。



〜北条政子の上洛と実朝の構想〜

 1218年(建保6年)2月、北条政子後鳥羽上皇の皇子を将軍後継者として迎えるため上洛している。

 これは実朝が望んだことで、「将軍職を親王に譲って自らは後見する」という構想があったとする説がある。


 リンクボタン北条政子の上洛と将軍継嗣問題



唐船
リンクボタン源実朝歌碑
(鶴岡八幡宮)

「山はさけ海はあせなむ世なりとも君にふた心わがあらめやも」

 山が裂けて海が干上がってしまうような世になってしまっても、上皇様を裏切るような心は私にはありません。





〜暗殺された実朝〜

 次々に昇進を続けた実朝だったが・・・

 1219年(建保7年)1月27日、前年末に昇進した右大臣拝賀の式が行われた鶴岡八幡宮で、甥の公暁に暗殺された(享年28歳)。



源実朝の暗殺








源実朝像
リンクボタン源実朝


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