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1216年(建保4年)6月15日、宋国の工人陳和卿が源実朝に対面。 和卿は、平重衡の南都焼討によって焼かれた奈良・東大寺の大仏鋳造と大仏殿の建設に尽力した人物。 『吾妻鏡』は・・・ 「将軍はその昔、宋の医王山の長老であり、私はその弟子でありました」 と語られた実朝は・・・ 夢の中に現れた高僧にも同じことを言われていたことから、それを信じてしまったのだとか。 そして、11月24日、実朝は急に渡宋を思い立ち、和卿に命じて唐船を建造させることにする。 船は海岸で造られ、1217年(建保5年)4月17日に完成したが・・・ 進水させることができず、実朝の夢は絶たれた。 と伝えている。 しかし、実際に実朝が渡宋を考えていたか否かは不明。 実朝には平清盛が行った日宋貿易が頭にあったのかも・・・ |
実朝が唐船を建造させた由比ヶ浜は、稲村ヶ崎から飯島岬での海岸。 由比ヶ浜は遠浅なので大型の船を進水させるには無理があったという指摘もあるが・・・ 1191年(建久2年)、大火で焼けた鶴岡八幡宮を再建する際に、源頼朝は使用する材木を船で運ばせたのだという。 1223年(貞応2年)の成立と考えられている『海道記』には、由比浦(入り江)があって数百艘の船が停泊していたと記されている。 だとすると、実朝の造船計画は、しっかりとした計画のもとに実行されたのではないのだろうか・・・ |
船玉神社は、旧鎌倉道沿いにある神社。 渡宋のための船の用材は、現在の藤沢市大鋸の辺りから切り出されたと伝わっている。 |
和賀江嶋は、由比ヶ浜の東端(材木座海岸)にある現存する我が国最古の築港。 二代執権北条泰時が許可して築かれた。 実朝の唐船が進水できなかった場面を見ていたであろう泰時は、港の重要性を理解していたのでしょう・・・ |
実朝の渡宋計画は失敗に終わったが、その憧れからか、宋の能仁寺より仏舎利を請来している。 その仏舎利は、勝長寿院に安置された後、自らが創建した大慈寺に納められていたのだという。 現在は、円覚寺塔頭正続院にある舎利殿に納められている。 |
源実朝が宋より請来したという円覚寺の仏舎利は、室町時代、その一部が京都に献じられ、鹿王院に安置されたらしい。 |
京都の鹿王院は、足利義満が創建した寺。 舎利殿に安置されている仏舎利は円覚寺にあったものだという。 |
鶴岡八幡宮の若宮の社殿横のビャクシンは、実朝が宋から苗を取り寄せて植えたものと伝えられる。 建長寺のビャクシンと並んで貴重な古木。 |
江島神社の辺津宮にある江島霊迹建寺の碑は、1204年(元久元年)、実朝が宋国に使節を送った際、宋の慶仁禅師より贈られた石碑と伝えられている。 |
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