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| 鎌倉十井の一つ「六角ノ井」は、保元の乱で敗れた源為朝(源義朝の弟、源頼朝の叔父)の伝説が残された井戸。 伝説によると・・・ 弓の名手であった為朝は、腕の筋を切られ伊豆大島に流されたが、ある時、自分の力を試すために、光明寺の裏にある天照山めがけて放った。 『新編鎌倉志』には、為朝の放った矢は、海上18里を越えて、この井戸に落ちたと記されている。 現在も矢の根(鏃)が井戸の中段に祀られているらしい。 井戸は八角だが鎌倉側に六角、小坪側に二角であることから「六角ノ井」と呼ばれるようになったのだとか。 別名は「矢の根ノ井」。 村人が矢の根を拾い上げると水の質が悪くなったので、元に戻したところ、もとのような清水が涌き出るようになったという伝説からこの名がついた。 ある里人は矢の根を住吉明神に奉納したところ、井戸の水が濁ってしまったという伝説も。 |
| 源為朝は、源為義の八男。 源義朝の弟、源頼朝の叔父にあたる。 弓の名手として知られ、九州で暴れ回り、「鎮西八郎」と称された。 1156年(保元元年)、崇徳上皇と後白河天皇の対立に武士も参加した保元の乱が起こる。 為朝は父為義とともに崇徳上皇につき、兄義朝は後白河天皇について戦った。 為朝は夜戦を主張するが受け入れられず、逆に義朝に夜討ちをかけられてしまう。 奮戦の末、敗れた為朝は、その武勇を惜しまれて命は助けられたが、自慢の弓は引けないよう腕の筋を切られて伊豆大島に流された。 |

| 傷が癒え、再び弓を引けるようになると大暴れし、伊豆七島を支配するようになるが、為朝追討の院宣が発せられ、追討を受けた為朝は自害した。 一方、伝説では追討を逃れ、現在の沖縄県に渡り、琉球王国の始祖となったともいわれている。 『吾妻鏡』によると・・・ 保元の乱で源義朝に従い、為朝の矢を受けて負傷した大庭景義は、「鎮西八郎(為朝)は、無双の弓矢の達者也」と述べている。 |
| 為朝は保元の乱後、伊豆大島に流されたが・・・ 伝説によると、その後、武田信義のもとに身を寄せていたのだとか・・・ 武田信虎や武田信玄も信仰した武田氏の氏神・武田八幡宮には為朝神社が祀られている。 |

| 小坪路その2(海沿いの道) 源為朝の伝説と鎌倉十井:六角ノ井 |

| 鎌倉市材木座6−23−7 鎌倉駅東口から小坪経由逗子駅行バス 「飯島」下車徒歩5分 |
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