鎌倉手帳(寺社散策)

鎌倉のアジサイ 鎌倉あじさい物語



駒返り橋
〜信濃善光寺〜


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善光寺の駒返り橋


 善光寺の参道入り口にあるのは、駒返り橋と呼ばれる石橋。

 1197年(建久8年)、源頼朝が善光寺を参詣した折、駒(馬)の蹄が穴に挟まってしまったため駒を返したという伝説が残されている。

 頼朝はここからは徒歩で参拝したのだとか・・・。





〜鎌倉幕府と善光寺信仰〜

 『吾妻鏡』によると、源頼朝は、1179年(治承3年)に焼けた善光寺を復興するため、1187年(文治3年)7月27日、信濃国の目代(比企能員)や信濃国の御家人に再建を命じている。

 1191年(建久2年)10月22日には、金堂の供養が行われたことが記されている。

 善光寺信仰は頼朝亡き後も北条氏に受け継がれ、善光寺信仰が広まるとともに善光寺如来の模刻が多く出回った。

 鎌倉円覚寺に伝わる善光寺式阿弥陀三尊像は、1271年(文永8年)銘のあるもの。 


 鎌倉時代には、東大寺再建の大勧進・俊乗坊重源、浄土真宗開祖の親鸞、時宗開祖の一遍なども善光寺を参詣している。 





〜源頼朝の善光寺参詣〜

 鎌倉幕府の記録である『吾妻鏡』は、1197年(建久8年)から源頼朝の死までの2年余が欠落しているため詳細は不明だが、1195年(建久6年)8月2日の条には、頼朝が善光寺参詣を計画していたことが記されている。

 この計画は、翌春に延期され、その後どうなったのか『吾妻鏡』からは知ることはできないが、頼朝東大寺大仏殿落慶供養参列に続いて、善光寺参詣を計画していたことがわかる。

 また、肥後国人吉藩(ひとよしはん)の相良家に伝えられた相良家文書の「源頼朝善光寺参詣随兵日記」には、1197年(建久8年)3月23日、九州の御家人であった相良四郎が随兵したことが記されているのだという。





 神奈川県葉山町にある新善光寺は、源頼朝が参詣した折に請来した善光寺如来を祀るため、名越朝時によって創建されたのを始まりとするのだという(もとは鎌倉にあった。)。

 朝時は、二代執権北条義時の子で、善光寺の再建を支援したことで知られている。


葉山:新善光寺
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 北条政子も善光寺参詣を望んでいたが、その前に亡くなってしまったと伝えられている。


 甲斐善光寺に伝えられている源頼朝像・源実朝像・熊谷直実像は、いずれも最古の彫像といわるもので、信濃善光寺から伝えられたもの。


甲斐善光寺
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源頼朝像と善光寺








善光寺と鶴岡八幡宮

歴史めぐり源頼朝




信濃善光寺
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 信濃善光寺の本尊「一光三尊阿弥陀如来像」は、三国渡来の絶対秘仏で、日本最古の仏像。
 鎌倉時代には源頼朝も参詣したと伝えられている。


長野県長野市元善町491

JR長野駅からバス「善光寺大門」下車。
善光寺大門から本堂まで徒歩15分。





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