鎌倉手帳(寺社散策)

運慶 運慶 祈りの空間



柳沢吉保夫妻の墓
〜甲州市:恵林寺〜

編集:yoritomo-japan.com








柳沢吉保夫妻の墓


 恵林寺にある柳沢吉保の墓塔は、甲府藩主だった吉保が1708年(宝永5年)に菩提寺として建立した黄檗宗永慶寺にあったもので、夫人の墓塔も塔頭の真光院にあったもの。
 
 1724(享保9年)の 享保の改革により、吉保の嫡子吉里が大和郡山に移封された際、永慶寺も大和国へ移転したため、吉保夫妻は恵林寺に改葬されたのだという。

 柳沢吉保は、1714年(正徳4年)11月2日死去。

 墓塔には「永慶寺殿保山元養大居士」と刻まれている。

 吉保夫人は、その前年の9月5日死去。

 墓塔には「真光院殿海月映珊大師」と刻まれている。



柳沢吉保廟
柳沢吉保廟





〜武田氏一門〜

 柳沢氏は、河内源氏の庶流で武田氏一門だったのだという。

 武田氏滅亡後、柳沢信俊が徳川家康に仕え、孫の吉保は五代将軍徳川綱吉の側用人を務めた。

 1704年(宝永元年)、甲府城主となった吉保は、翌1705年(宝永2年)4月、恵林寺武田信玄の百三十三回忌法要を執り行い、武田氏に連なる一族であることを強調したのだという。

 ただ、吉保は終生幕閣にあって、甲府城に入って直接藩政に携わることはなかった。



武田信玄の墓
リンクボタン武田信玄の墓

 1573年(元亀4年)4月12日に死去した信玄は、躑躅ヶ崎館の麓の土屋昌続邸に埋葬され、3年後の1576年(天正4年)、昌続邸で荼毘に付された後、4月16日、恵林寺に埋葬されたのだと伝えらている。

 墓塔(五輪塔と宝篋印塔)は、いずれも1672年(寛文12年)の百回忌に建立されたもの。





甲府城
リンクボタン甲府城

 甲府城は、織田・徳川連合軍による甲州征伐で武田氏が滅亡した後、甲斐国を統治するために築かれた城。

 柳沢吉保の子吉里は、甲府藩主としてはじめて甲府城に入城している。



柳沢吉里の男子二人の墓
リンクボタン柳沢家の廟所
(甲府市:東光寺)

 甲府五山のひとつ東光寺の柳沢家の廟所には、吉里の男子二名の墓がある。





永慶寺
リンクボタン永慶寺
(大和郡山市)

 1724年(享保9年)に大和郡山に移転した永慶寺には、甲府の仏師大下浄慶が制作した柳沢吉保と夫人坐像が置かれている。

 浄慶は武田不動明王を制作した京の仏師・康清の子孫といわれる。



柳澤神社
リンクボタン柳澤神社
(大和郡山市)

 柳澤神社は、大和郡山城の本丸跡に建てられた柳沢吉保を祀る社。



大和郡山は金魚の町

 大和郡山市の金魚養殖は、吉里の家臣が甲府から持ち込んだ金魚に始まる・・・










恵林寺
リンクボタン恵林寺

 恵林寺は七朝帝師と呼ばれた夢窓疎石が開いた臨済宗の古刹。
 戦国期には武田信玄が信仰し、明王殿裏には信玄の墓がある。


山梨県甲州市塩山小屋敷2280

JR中央本線塩山駅から甲州市市民バス西沢渓谷線・窪平線「恵林寺」下車。

JR中央本線山梨市駅から山梨市営バス西沢渓谷線し「隼上」下車。



大きい地図を見るには・・・
右上のフルスクリーンをクリック。








中世歴史めぐり


奈良・京都 奥州平泉
源頼朝をめぐる大阪 源義朝最期の地


運慶 運慶 祈りの空間


紫式部 紫式部年表


鎌倉殿の13人 二代執権北条義時
特集!「鎌倉殿の13人」伊豆国編 特集!「鎌倉殿の13人」鎌倉編


徳川家康 日光東照宮